『寿猫股見聞随筆・厠の猫』 2007/5/16



 たまに梗子から不思議っぽい話を聞くことがある。不思
議っぽいというのは、最近では自分の感覚が常人の不思議
だと感じる閾値から大幅にズレてきている事を認識してし
まったので、「っぽい」とさせてもらったわけだ。
 梗子というのは俺が厄介になっている邸の主人だ。本名
を流鏑馬梗子という。
 代々この街を護ってきた猫股一族であり、ここら一帯の
猫の総大将だ。梗子は俺と同い年のはずだが、妙に老練と
している油断なら無い娘だ。猫の冷徹な部分を前面に押し
出したような性格をしている。
 そんな猫股邸には猫があふれている。ここでニンゲンの
姿をしているのは俺と梗子くらいだ。邸に居る他の猫股は
ニンゲンの姿になることはないようだった。
 ちなみに俺はこの邸の丁稚だ。ヒエラルキーは最下層な
ので、色々と猫の世話をしなければならない。もちろん梗
子の世話も含めてだ。
 家事手伝いが俺の本職。自宅警備員と言いたいが、半分
人間の俺なんかよりもずっと強力な獣が邸の所々で寝てい
るのでお株を奪うわけにはいかない。
半分人間というのは、諸事情で死んだところを無理やり邸
内の温泉に放り込まれ甦生したからだ。死ななかったのは
良いが、特殊な温泉だったらしく、ニンゲンの出来損ない
になってしまった。
 それ以来行く当てもないので、梗子の尻を舐めながら猫
に囲まれて生きている。

          *

 尻を舐めるという表現はまずかった。
 さっきこの原稿を恥ずかしげもなく盗み見した梗子に思
い切りビンタされた挙句、夕飯がカルカンになってしまっ
た。
 最悪だ。
 別にカルカンが不味いわけではないが……刺身、久しぶ
りだったのに……。
 たった十四行書いただけで筆を置いてしまう俺の集中力
の無さに問題があるわけだが、無用心に原稿を放り出して
おいたのも反省するべき点だ。
 いや、人の原稿を勝手に見た挙句に制裁措置を加えてく
るあの女の性格が歪んでいるのだ。どうせ没収した俺の刺
身を旨そうに食べるに決まっている。そんなだから最近腹
の肉が弛んできているのだ、あの泥棒猫めっ!
 そして七行書いた現時点でまた筆を置かねばならない。
 梗子が呼んでいる。
 まさか覗き見されたわけではないと思うが、馳せ参じる
前に、梗子を泥棒猫と罵った事実を訂正しておく。彼女は
慎ましい女性である。
 あぁ、これ以上梗子を待たせるといけない。
 書きたいことが噴水のように飛び出してくるときに限っ
て邪魔が入る。神階宮の好きなマーフィーの法則ってやつ
だ。恐ろしい。
次、筆を持ったときには、おそらく今書こうとしているこ
とは忘れているだろう。
 メモしている暇がない。
 
           *

 ほれ、案の定だ。
 忘れてしまった。何書こうとしてたんだっけ……まぁい
いや。うん、いいやね。
 風呂掃除している間、新しい話を梗子から聞いてきた。
それを書くことにする。
 ついでに言うと前回筆を置いてから四時間たっている。
今、梗子は風呂に入っている。突然、風呂に入りたくなっ
たらしく風呂を洗えと指令が下ったのだ。外の露天風呂を
使えばいいのに、俺に対する嫌がらせか?
 あいつは風呂に入ると長い。
 おそらく獣臭いのだろう。身体を丹念に洗うので時間を
食ってしまうに違いない。毛深いのも原因の一つだ。入っ
た後の後処理もさらに長い。そして後始末もめんどくさい。
愚痴らせてもらうと、あいつの風呂の後始末は面倒くさい
ことこの上ない。毛が大量に落ちているので捨てるのが骨
なのだ。ん、ということはあいつは風呂に入るとき、猫の
姿に戻っているのだろうか。今までに一度も猫姿を見たこ
とがないので、その点は唖然興味がある。
 裸は見慣れているのだがさ。
 なんにしろ、あいつの邪魔が入ることは当分ないだろう。
書き上げる時間はあるはず。あると願いたい。頼む、あっ
て。

          *

 それは一軒の高級娼館であった話だと、毛深いだろう梗
子が、着物をぬらさないように檜造りの浴椅子に腰掛けて、
話し始めたのはちょうど風呂桶を洗い終わった頃だった。
 そこは親交査定の厳しい各合法非合法駐日組織が、娼婦
の予約のために諜報戦を繰り広げるくらい繁盛している娼
館で、こと風俗業に関しては激戦区である終旭において、
間違いなくトップ3に入るイカれた蜂蜜袋だった。
 ある日、そこに一匹の紅い虎柄の猫が拾われてきた。
 誰が拾ってきたかはよくわからないが、気がついたとき
には受け付けの広間で、腹を出して大の字になり寝ていた
という。横には固形餌の入ったプラスチックの容器があっ
た。
 娼婦たちは誰が拾ってきたのか互いに問答したが、良く
懐く猫だったので、そのまま飼うことにしたのだった。
 よく顔を洗う事から縁起が良いと館の主にも気に入られ、
娼婦たちに目一杯可愛がられた。
 その猫を嫌っていたのは、同じ頃に娼館の設備管理士と
して働き出した陰気な男だけだった。
「おいでおいで、抱っこさせて、虎介」
 そう言って虎介を抱き上げる白く細い腕があった。
 娼婦の中でも人気ナンバーワンの薄雪という娼婦が、他
の誰よりもこの猫を可愛がっていた。虎介という名前を与
えたのも薄雪である。
 虎介も薄雪に抱かれているときは喉を鳴らして大人しく
していた。
 仲の良いことに皆やっかみはしなかったが、虎介の少々
困ったくせに眉を顰める娼婦もいた。
 売り上げ上位の娼婦には特別豪華な個室が与えられる。
ナンバーワンである薄雪も当然、彼女専用の浴室とトイレ
が用意されている。
 困った癖というのは、虎介は薄雪のトイレの中にまでつ
いていき、必ず鉢植えの一角に陣取って座っているのだと
いう。
 彼女だけにである。
 薄雪自身は特に気にしている風でもなく笑いながら他の
娼婦に話したが、今まで好意的に見ていた者達も虎介を奇
異の目で見るようになってしまった。
 特に騒いでいたのは設備管理の従業員である。
 何かにつけては猫を排除しようと主張した。
 娼婦たちはそこまでは考えていなかったものの、何度か
虎介をトイレに入れないように躾けてみた。それでも一向
に治る気配もなく、逆に薄雪のほうが、虎介が可愛そうだ
と怒ってしまった。
 それからというもの、薄雪がいつ如何なる時も虎介を放
そうとしなくなり、仕事中も部屋の中に置いておくほどで
あった。
 おそらく他の娼婦に対する意地もあったのだろうと梗子
は推察した。
「猫は人に魅入るという。きっと薄雪の美貌を狙ってとり
憑いたに違いない」
 設備管理の従業員がそう囃し立てると、娼婦たちの間で
も半ば信憑性を持って話題に上るようになった。
 薄雪が猫に魅入られたという噂が客の口からも聞かれる
ようになり、目に見えて薄雪の売り上げは落ちてしまった。
こうなってくると薄雪も笑っておれず、噂の否定のために
も一転して虎介をそばに近寄らせようとしなかった。
 虎介は無視され、邪険にされても薄雪の側に擦り寄った。
薄雪と一緒にトイレに入れないとなるや、
「あおーあおーあおーっ!」
 と発狂したかのように啼いた。
 薄雪が仕方なくトイレに入れると、一転して静かになり、
いつもの定位置に落ち着いていた。
 薄雪も段々と気味が悪くなり、されど捨てるには情が移
ってしまっているので、仕方なく名士である流鏑馬家、つ
まりこの邸に預けることにした。
 猫がいなくなった晩、薄雪は一仕事を終えて個室のトイ
レに向かった。
 いつもなら足元を虎介がついてきているので歩きにくい
のだに、スムーズに歩めてしまうのがなんとなく寂しかっ
た。
「あたしが自分の家で虎介飼おうかなぁ」
 そんな風に呟いたとき、一匹の猫がトイレの扉の前にい
た。
 見覚えのある虎柄の猫。
「うそ……虎介? 戻ってきちゃったの?」
 にゃぅ、と虎介は一声啼いた。
「もう……ダメじゃない」
 薄雪は抱き上げようとした腕を止めた。
 ここで他の娼婦や従業員に見られたら、今以上に鬱陶し
い噂を振りまかれてしまう。
「今はあっちのお家に戻りなさい」
 薄雪が虎介を無視して進もうとすると、虎介が一度も見
せたことのない凄まじい威嚇の声を上げた。
「うーーーーーーーーーーーっうううーーーーーーーっぐ
うぐぐぐっうーーっ!」
「やだちょっと、どうしたの?」
 前肢を大きく広げ、耳を伏せる虎介に、薄雪はたじろい
だ。
「あたし漏れちゃいそうなの。お願い、退いて頂戴」
 薄雪が懸命に説得しても、虎介は頑として退こうとしな
かった。
 丁度通りかかった館主が、乗馬用の鞭で何度も叩いた。
 何度も打たれ、虎柄の毛に血が滲んだ。それでも虎介は
頑としてどこうとしなかった。
 そのとき虎介の眼球に、エレベータから辺りを窺うよう
に出てきた男の姿が映ったのを薄雪は見逃さなかった。
 唸り声を上げながら全力疾走した虎介は、男の咽喉元に
脇目も振らずに飛び掛った。
 怒り狂った獣そのものであった。
「うが……ぎぁーーっ!」
 男が手に持っていた本と機器を投げ出して、虎介から逃
げるように倒れる。
 虎介は一度床に着地すると、薄雪の目に止まらぬ速さで
男の股間に牙を立て、食い千切るように首を獰猛に振った。
「うわうわあああぁっ!」
 男が虎介を両腿で挟み、顔面を思い切り殴りつけるが、
それでも虎介は牙を立て続けた。
「ぐぞぐぞぉいてぇこのこのくそっこのやろうっ!」
 男は虎介の顔と首を両手で持ち、それぞれ違う方向へ強
引に曲げた。
 虎介の骨のひしゃげる音が廊下に響いた。
「きゃあああああああっ!」
 駆けつけてきた他の娼婦の悲鳴が轟く中、男は股間を押
さえて蹲っていた。
 ヒューヒューと乾いた息遣いが薄雪の耳に聞こえてきた。
「と……虎介?」
すでに首の骨が折れて絶命しているはずの虎介がゆっくり
と歩き出し、男が落とした機器の横に立った。
「にゃぁ……あー……」
 別れを言っているような、か細い鳴き声だった。
 一人の娼婦がその機器を拾って確認した。
「これって……なんかの受信機だよ。ほら、これアンテナ
だし、これ画面だから……」
 それを聞いた薄雪はハッとして、トイレに駆け込んだ。
 いつも虎介がいた鉢植えをひっくり返し、土の中を調べ
た。
「……やっぱりっ!」
 土の中からは盗撮用のカメラと発信機が見つかった。
 娼婦が男の持っていた機器の電源を入れてみると、そこ
にはカメラを通した薄雪の顔が映っていた。
「虎介……これを知ってて……」
 薄雪が虎介を振り返ったとき、虎介は絶命し、眠るよう
に横たわっていた。
「ごめんね……守ってくれてたんだね……ごめんね」
 薄雪は虎介の亡骸を抱き上げると、蹲っている男の顔面
を力任せに蹴り上げた。
 
           *
 
 娼館のあらゆる場所を調べたが、盗撮カメラが出てきた
のは薄雪のトイレだけだった。
 男は猫がいなくなったあの日、初めてカメラをセットし
たのだという。
 今では男の消息は知れていない。
ソノ筋に処理されたとも、薄雪に約束をキャンセルされた
アノ筋の客に連れて行かれたとも言われているという。
「立派な猫でしょう」
 梗子はそう言って風呂を洗う俺の背中を叩いて同意を求
めた。
 俺は二三疑問も残っていたが、黙って檜を擦った。

           *

 ちょうど筆を置いた時分、風呂上りの梗子が俺の部屋に
やってきて原稿を無理やり読み上げた。
 どうやら序盤の毛深いという事実が気に食わなかったら
しい。
 俺は髪の毛の渦の部分にボールペンを突き立てられ蹴飛
ばされ、あえなく床に這い蹲ってしまった。
「きっと元禄の時代も似たようなことがあったんでしょう
ね」
「あぁ……『松下庵随筆』の話か。蛇を男として……男根
……ミャシャグジサマ信仰の影響もある、か」
「今も昔も、人間は変わらないわ」
「猫だってそうだろ?」
「そうよ、今も貞淑で義理堅いわよ」
 梗子がそう言い残して部屋を出て行った。
 虎柄の新入りが梗子にくっついて歩いているのが見えた。



 了



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