『猫情@E-motion Color』 2007/4/26



 私があの高級集合邸の白猫に恋をしたのは、梅雨と夏が
卑しく絡み合った時分だったと記憶している。
 先生の依頼でセアカゴケグモを捜しているうちに、私は
この観葉植物で埋め尽くされたテラスへ迷い込んでいた。
運悪く雷雨に見舞われ、にっちもさっちも行かなくなった
私に、彼女は声を掛けたのだ。
「どうなさったの?」
 唸る雨音の中でも、風鈴のような透き通る猫の鳴き声が
私の耳をくすぐった。
 今思えば、おそらく彼女は暇だったのだろう。ただそれ
だけのことだったのだろう。
 私は二本足で立ち、観葉植物から頭を出して声の主を捜
した。
「こっちです」
 サンダルと如雨露が並んで置いてある窓のほうから声が
聞こえた。あそこから部屋に続いているのだろう。
 私は警戒しながらゆっくりと窓に向かった。回り込むよ
うに様子を伺った。
 声の主は網戸で仕切られた向こう側にいた。
 フワフワとした灰褪白色の美しい長毛、ハッキリした紅
鼻と大きな金色の眼が私を見ていた。
 その瞬間、私は蜜柑の皮の汁を眼に吹きかけられたとき
以上の驚きが全身を駆け巡った。
 この感覚は良く知っている。すぐに理解した。
 私はこの雌猫に惚れたのだ。
 この手の劣情に関して、私は奥手なほうではない。半分
口八丁の仕事の見習いをしていることもあり、話術に関し
ては少々の自信があったせいもある。
 だが迂闊にも舞い上がってしまい、天気と御山の話をし
ただけで、お互いの名を教えあったのはその翌日になって
からだった。
 彼女は飼い主からルネと呼ばれているらしい。
 野良猫の場合は幾つもの名前をもっていたりする。御山
で授かった御名が本名ということになるだろうが、どう呼
ばれようが特に気にしないのが猫族の共通意識だった。ル
ネの御名は秋雨というとのこと。外国の血統種だと私は予
想していたので、御山にいたことがあるのは驚きだったが、
最近ではこの国で生まれる外国血統種も多いので、国産種
から外国産種へ生まれかわることも珍しくないのだろう。
 ともかくルネの美しさは度肝を抜いており、私は彼女の
出生が気になって仕方が無かった。しかし、それを切り出
すタイミングを掴めず、彼女の飼い主が帰ってきてしまい、
私は帰り際になって彼女から血統を聞き出す体たらくであ
った。
 私は急いで寝床に帰り、先生への挨拶もそこそこにいく
つかの猫図鑑を引っ張り出してページをめくった。
「ノルウェージャン・フォレスト・キャットです」
ルネの声が蘇る。それが彼女の血統種だ。図鑑に載ってい
るノルウェージャン・フォレスト・キャットともよく似て
いるのでまず間違いないだろう。
『小さなオオヤマネコのような外見、大きくがっしりとし
た骨格と発達した筋肉、横顔は直線的で鋭く、見開いた大
きな瞳は丸くなく、頭の高い位置についている耳には程よ
い房毛があり、僅かに豊かなラフ(襟毛)と滑らかで光沢
があり、防水性に富んだトップコート、羊毛上のアンダー
コート、足は長く華奢でなく、ポー(足指)は大きくて丸
く、指の間にはタフト(ふさふさした長い毛束)が生えて
いる』
 説明を読めば読むほど私の頭の中にルネの姿が再構築さ
れていく。
 この説明文はまさにルネそのものの説明文ではないかと、
私は興奮してしまい、腹を出して床をゴロゴロと転がった。
『バイキングが東洋のビザンティン帝国との間に通商用の
航路を持っていた壱拾壱世紀頃、ノルウェーに猫が入って
きた。猫が交易品としてビザンティン帝国からノルウェー
に直接入ってきたことは、この地域の猫がヨーロッパでは
滅多にない、トルコに多く見られる毛色を持つことからわ
かる。ノルウェージャン・フォレスト・キャットの祖先は、
長毛種のトルコ猫だったと推測される。長毛種の大きな猫
はスカンジナビアの厳しい冬に適しており、これらの猫は
農家の家で飼われるようになった。一九三〇年代まで単独
の猫種とは認められず、計画的な品種改良が始まったのも
1970年代以降で、米国に入ったのは一九七〇年代、英
国へは一九八〇年代に入った』
 やはり外国の血統種だったのだ。歴史は浅いようだった。
まだまだ世間的には希少な血統種なのかと私は納得した。
今まで一度も見たことの無い美しさも頷けるものがった。
 図鑑に載っている猫たちも美しい容姿をしていた。
『多少人見知りをしても、人間に対しては静かな信頼を寄
せる』
 ルネの静かな物腰を思い出し、私は頷いた。
『堂々たる風采』
 ルネの気高い佇まいを思い出し、私は頷いた。
『縄張りは精力的に守る。よじ登ることや狩りが得意で、
小川の近くに住む飼い主からは、この猫が漁をするという
報告もされている』
 ルネの母性の強そうな口調を思い出し、私は大きく息を
漏らした。
 つまり私は馬鹿になってしまったのだ。簡単に言えば。
以来、私はこのテラスに通い詰め、彼女の美しさを褒め称
えた。その手の賞賛に彼女の興味が絶無であることに気付
いたのは半月が見事な夜だった。
 私の恋心も落ち着きを取り戻してからは、世間話を楽し
み、時折含み針のように彼女を讃える程度になった。
 今の時期は、部屋の家主が網戸にしたまま仕事に出かけ
るのだという。私は無用心だと思うが、特に口を挟まなか
った。
 ある晩、多少なりとも雄雌の仲であることを意識してい
るのを感じながら、私は彼女に訊いた。
「君は外に出たいとは思わないのかい?」
 観葉植物が私の髭に水滴を垂らした。
「私の世界は、この部屋の中と御山だけだから」
 ルネは部屋の外に出ようとはしない。このテラスも彼女
にとっては『外』に分類されるらしく、窓を踏み越えるこ
とを頑なに拒んだ。
 私もそれを強要するつもりは無いし、部屋の中に入るつ
もりは無かった。
 ここで彼女と語り合うだけで満たされていたのだ。


 にわか雨の振る寒い午後、その日、いつもは網戸にして
あるルネの住処の窓は開け放たれており、部屋の中が見て
とれた。私は部屋の中に雨粒が入るのではないかと思った
が、丁度良く観葉植物の辺りまでしか降られないようだっ
た。
 案外、ここの観葉植物は好き勝手成長してここまで茂っ
たのかもしれない。
 私は葉を潤わせた彼らの間を縫ってテラスに抜け出る。
 ここまでは私も上機嫌だった。世の中はふかふかした毛
布のような感覚だった。
 しかし毛布で転がっているうちに静電気が溜まってしま
ったらしい。
 少しどころではなく濡れてしまいショげる私に追い討ち
をかけるように、悲しいかな見たくも無い光景がそこには
あった。
 窓の限定されたフレーミングから観察することの出来る
空間。そこは人間の女性を容易に想起させる部屋。そう、
ルネは人間の女性に飼われている。飼い主が部屋に帰って
きたときが、私とルネの逢瀬の終わりを意味しているので、
私は何回か玄関で靴を脱ぐ女性を目撃していた。
 そんなことを考えながらルネが出てくるのを待つが、彼
女は一向に姿を現さない。私は少し心配になり、窓からそ
っと覗き込んだ。髭が部屋の中に入ってしまっているが、
私は気にせず部屋の様子を伺った。
 室内を照らしているのは窓からの採光だけで、電灯など
の灯りは一切ついていないようだった。にわか雨が降る前
なら充分明るかっただろうが、陽が雲に隠れてしまった今
では、人間の視力では暗いのではなかろうか。
「むぅ……」
 異様な光景に私は息を呑んだ。サワサワと毛が波立ち、
無意識に大腿二等筋と腓腹筋に力が入る。
 惨状とまでは言わずとも、室内は酷い有様になっており、
薄暗さと合間って澱んだ空気が私の鼻を霞めた。
 椅子やテーブルなどの軽い家具は倒れ、衣服は破かれ、
装飾品の類は床に散乱している。フローリングに敷いてあ
った絨毯も乱暴に捲れており、嵐が過ぎ去った後のような
荒れ様であった。
 私は最初、物取りの類の仕業かと思ったが、耳を済ませ
てみると、どうやらそうではないことがわかった。
「うぇ……うぅ……ひっく……んぐ……ひっ……ひっ……」
 テラス側の壁際に女が一人座り込んで泣いている。
 年の頃は二十代前半だろうか。
 眉の上でパッツンに揃え、腰までありそうな長い濃紺の
髪が顔を隠し、女がしゃくりあげる度に揺れた。手には鋏
が握られており、小刻みに震えている。
「なによぉ……なによぉ……ひどいよぉ……」
 癇癪の類だろうと私は判断した。泣いている人間の女に
は良くあるらしい。一種の遺伝性精神疾患の一つだと先生
は言っていた。これが発病中のときは視界に入っても危な
いのだとか。
「飼い猫ならともかく、野良猫だと八つ当たりされるかも
しれんからな。良く観察することだな」
 先生の冷徹な声が前頭洞あたりでリピートする。
 八つ当たり、八つ当たり、八つ当たり。
 私はルネの身が心配になり、耳をピクピクと、眼はあま
り動かさず、首を細かく動かして彼女を捜した。
 家主の女は随分と物を投げる性質らしく、大小様々なも
のが様々な場所に散らばっている。握っている鋏も投げよ
うとしたのだろう。
 そう思うと居ても立ってもいられなくなってくる。
 ルネに当たっていやしないか、ルネは怪我をしていやし
ないか。
 私はどうにも器が小さいので、こういう事態を目の前に
すると心配性が多分に出てしまう。一人で大騒ぎして失笑
を買うこともたまにある。
 なんとも駄目なのだ。
 館の化け猫のような常識ハズレの連中の心配などはつい
ぞしないが、ルネは真っ当な猫なのだ。ましてや飼い猫だ。
人間の理不尽な暴力を回避する力が備わっているとは思え
なかった。外に出ればすぐに捕まえられるか車に轢かれて
終わりに違いない。
 あぁ心配である。彼女はどこだ?
 太宰治の著書の如き誠に鬱陶しい思考回路は、ショート
寸前でベッドの上に静かに寝転んでいるルネを見つけた途
端に沈静化した。
 単純なことこの上ないのだが、ともかくルネが元気そう
でなによりだった。あくびをしているのだ。怪我もないだ
ろう。
 私は安心して、その場に足を曲げて伏した。
 当のルネ自身は慣れたもののようで、飼い主のヒステリ
ーが納まるのを待っているようだった。
 薄闇の中でも、彼女の美しい毛並みが栄えているのがよ
くわかった。気品のある丸い両眼も宝石のようにキラキラ
と僅かな光を反射していた。
「……誰も私のことなんて……わかってくれないのよ」
 えづくのを止めた女がルネに話しかけた。
 とりあえず私にはわかりそうになかったので心中同意し
ておく。
「慰めてくれるのはあなただけね……う……うぇえ……う
ぅ……」
 女はルネを抱き寄せ、またもさめざめと泣き始めた。
 何がそんなに悲しいのか少し興味が湧いたが、人間の女
は原因がわからない夜鳴きのように泣き出すことがあると
も先生は言っていた。癇癪と同じく、関わって面白いこと
はなさそうだった。
 私のあまり褒められたものではない思案を見透かすよう
に、仕方がないという感じで抱きかかえられているルネと
眼が合ってしまった。
 そこでようやく私は他人のプライバシーを覗いているこ
とに気付き、スゴスゴとテラスに戻らざるを得なかった。
 ストーカー染みてきてまずいなァと思いながら、私は雨
が止むまでテラスの隅に居心地悪く丸まっていた。


「この間はごめんなさい」
 会話の空白、一息置いてルネが頭を垂れた。
「わたしの飼い主は少し心が挫けやすくて……驚いてしま
ったでしょう?」
 上目遣いで私を見つめる。
 相変わらず湿っぽい風にヒゲを揺らされながら、私はす
ぐピンと来た。
 この前、図らずも目撃してしまった飼い主の癇癪を指し
て言っているのだろう。
 あれから私も先生の手伝いと雑業が思いの他忙しくなり、
このテラスに来たのは四日ぶりだった。
 確かに、驚いたには驚いたが、謝るべきは不注意な私の
ほうであろうし、ましてや畏まって謝られることでは断じ
てない。
 飼い主の痴態よりも、ルネの謝罪のほうが私を驚愕させ
た。
 今まで話した上での彼女の知的感覚からして、そこらの
道理がわからないわけではないはずなのだが、あの飼い主
に関しては筋がおかしくなってしまうのだろうか。
 悪い癖を落ち着かせるために二度、素早く顔を洗ってか
ら、私も前肢の足指に鼻がつくくらい頭を下げた。
「いや、覗き見していた私のほうが無作法だったんだ。下
賎な真似をしてしまってなんと言えばいいか……申し訳な
い」
「四日もいらっしゃらないので……てっきり愛想を尽かさ
れたてしまったのだと思いました」
 うふふとルネが笑った。
「いや、まさか……ははは」
 それが本心なのか皮肉なのかわからなかったが、どちら
にしろ私の恋路も満更ではないようだったので嬉しくなっ
た。
「私のほうこそ、こんなデバガメ猫とは、もう一切会って
もらえないものと半ば諦めて来ましたよ」
「まぁ、そんなこと……ありませんわ」
「家主のお加減は如何?」
 努めて何気なく訊いてみた。やはり気になる。
「あの、はい……あの日は良くない報せをもらったらしく
て……」
「良くない報せ?」
「はい……それで、少し不安定になっていただけなんです。
すぐにお薬を飲んで落ちついて……普段は優しい人なんで
すよ」
 ルネが必死に弁護するのを、私は黙って聞いていた。
 彼女が言うには、飼い主は人との交わり方が不器用なの
だという。いらぬ鬱憤を溜め込んでは爆発しているという。
 迷惑な自爆型である。私の苦手とするタイプだった。
 私自身もそのタイプなのだが。
「その良くない報せというのは?」
「…………」
 口籠るルネを見て、私はしまったと思った。
 飼い主の、ひいてはルネのプライバシーに立ち入り過ぎ
た発言だった。
 四日前の反省が全く活かされていないではないか。
 私は自己嫌悪で自爆してしまいたかった。
 この一言多い癖のおかげで、私は鬱憤が溜まってしまう。
自業自得といえばまさしくその通りなのだが、如何せん治
るものでもない。
 治らないならば共存していくしかないが、どう付き合っ
ていくべきなのかもイマイチ判らない。
 茜丸なんかも一言余計に言う性質だが、奴らの場合は敢
えてそうしている節があるので、相談したところで的確な
アドバイスはもらえなかった。むしろ悪化させられた可能
性もある。
「結局は注意力散漫なだけよねぇ」
 茜丸はそういってニヤニヤしながら切り捨てた。
 フォローも糞もない指摘だが、その点は私もまったく同
意なのだ。だから始末が悪い。
 悪いのだ。
 じくじくと侵食してくるネガティブ思考に踊らされ、あ
からさまな狼狽を態する私を落ち着かせるように、ルネが
声を潜めて囁いた。
「最近は恋人の殿方とも上手くいってないようで……」
「ははぁ……恋絡みですか」
「心配です」
 溜息をつくルネの言葉には陰鬱な重みがあった。
 おそらく私が考えているよりも、ずっと複雑でややこし
い事情があるのだろう。
「それはどうにも……剣呑ですな」
 私のシッポが小刻みに振れた。
 種の保存以外に価値を見出した人間の恋愛事情に、私た
ちは口を挟むことも、肉球を差し伸べることもできない。
理解できる部分や重なる部分はあれど、やはり別次元の話
なのだ。ただ心配する以外にどうしようもない。助けたい
と思っても、私たちは唯見つめていることしか出来ないの
だ。
 私は正直、あの女のことなどどうでも良かったが、気を
惹くために同情の言葉を連ね、ついでに彼女への好意を含
めて慰めた。
 彼女は目を細め微笑んだが、どこか儚げだったのが気に
なる。
 遠くで雷が鳴っているらしい。
 私もルネも、耳を真っ直ぐ正面に向け、曇天の空を眺め
た。
 私は気の利いたことを何も言えず、雨が降り出す前に彼
女のテラスから遠慮した。
 道すがら振り向けば、ルネが珍しくテラスの縁に上り、
私を見送ってくれていた。


「深窓のご婦人は元気だったワケ?」
 鴉片堂の離れの一つに入った途端、無遠慮な声が聞こえ
てきた。
 畳敷きの十畳ほどの座敷には、中央に囲炉裏、それを囲
むように紫の座布団が四枚敷かれている。やや煤けた樫の
柱や梁がわざわざ邪魔になるような位置にあるのは設計者
の悪戯か、頭が可笑しかったのか。
 床の間に「変態」と書かれた掛け軸がある以外は飾りっ
気がなく、裸電球に照らされた室内は陰影濃く、されど暖
色で染められている。
 しとしとと雨が降るせいか、若干湿度が高い。室温は私
にはちょうど良かった。
「なんで知ってる、茜丸」
 私はじろりと、隅にうず高く積まれた座布団に腹を出し
てキセルを呑んでいる茜丸を睨んだ。
「茜と呼べっていつも言ってるじゃないの。あの貴婦人に
接する態度とは全然違うわねぇ、失礼しちゃうわ」
 被毛は黒一色のセミロング、金の眼が妖しく瞬く猫。首
筋の被毛だけボワンと逆立っていた。雨の日特有の癖っ毛
である。毛と同じく、鳴き声にも少し癖がある。
 一体どういう経路か知らないが、私のトップシークレッ
トを知られてはならない連中に知られてしまったようだ。
これは非常にまずい。
「種明かしするぅ?」
「……いや、もうお前等の常識ハズレな行動にはとやかく
言わない。しかしだ、私は真っ当な猫股なんだ。彼女に至
ってはまだ猫股でもない。いらん手は出してくれるなよ」
「いいじゃないの。攫ってしまおうよ、協力するんだから
ぁ」
 カラカラと茜丸が笑う。一切悪気がない。始末に悪い。
「物騒なことを言うなよ。怒るぞ。第一彼女はそんなこと
望んでないんだ」
「あらま、早々にナイト気取りときたもんだわ」
「うるさい」
 私は茜丸を睨みながら備え付けのニボシを咥えて、囲炉
裏に近い座布団に丸まる。
「アタシだって暇じゃないわよ。少なくともあんたよりは
働いてるつもりなワケ。書生猫なんて楽でいいわよね」
「あぁ、そうかい」
「そうよ。今だって梗子から仕事を叩きつけられてきたん
だから。猫使い荒いわよねぇ。毛が痛んじゃうんだから。
それがさぁ」
「言っとくが聞きたくないぞ。肉体労働は肉体労働向きの
連中が勝手にやればいい」
「なによ、冷たいわね」
「パンピーを巻き込むんじゃねいやい。私は君らとは近か
らず遠からずでいたいんだ。いや、できれば近づきたくな
いんだ」
「へぇ〜、そりゃどうもぉ」
 どうにも苛々してしまい。ニボシがもう一本欲しいトコ
だったが、これ以上は塩分過多になるので止めておいた。
 私がそれをしては、普段説教している他の連中から吊る
し上げられてしまう。
「ちゃんと守ってあげるってばぁ」
「都合が良いときだけだろ」
「……それでねぇ、なんか危ない化け猫がうろつき始めた
らしくてぇ」
「聞きたくないちゅーにっ!」
 また雨が降ってきそうだった。


 最後にルネに会ってから三日が経った。
 私は先生に頼まれた調べ物に手間取り、一歩も寝床から
出ていなかった。巷では生まれたばかりの赤子が連れ去ら
れる事件が頻発しているらしいが、私がそれを知ったのは、
ほろ酔い加減で邪魔しに来た茜丸によってだった。
 ここ二日で五人の赤子が消えている。いずれも深夜、大
きな獣が連れ去っていったというのだ。赤子を咥え屋根の
上を飛び去っていく獣らしき後姿を何人かの肉親が目撃し
ていた。犬よりもずっと大きい毛深い獣だという。
 私が寝床にしている診療所と縁のある病院でも一人連れ
去られた。次はウチではないかと先生も心配している。い
るのだ。私の寝床にも赤子が一人。無論、病院だけの話で
はなく、赤子を持つ住人全てが恐怖している。
 連れ去られた赤子は見つかっていない。生きているのか、
死んでいるのか。
「獣が連れて行ったんだ、決まってるじゃないか」
 悲観的な人間はそんなことを囁きあっている。
 妙な緊迫感が街全体に広がる中、ようやく仕事を片付け、
私はウキウキしながらルネのテラスに行ってみた。
「…………」
 なにか、いつもと様子が違っていた。いつもなら開いて
いる窓が閉まっており、ガラスはしっかりとカーテンで塞
がれ、中を覗くことが出来ない。もちろんルネの姿はない。
「うーむ……」
 この前の会話で、私はなにかヘマしてしまったのだろう
かと焦った。あるとすれば飼い主に対してのコメントがか
なりテキトーだったぐらいしかないが……。
「マズったかなぁ」
 窓の前を五分ほどウロウロしてみたが、何も変わらない。
赤子の事件もあるし、単に飼い主が用心して窓を閉めるよ
うになってしまったのだろうと思った。
 近所迷惑を承知で、にゃーにゃーと大きな声で鳴いてみ
た。もしかしたら、ルネが気づいていくれるかもしれない。
 淡い期待を込めてしばらく鳴いてみたが、ルネがカーテ
ンの隙間から顔を出すことはなかった。
 私は悲しい気分でガラスを見つめた。ヒゲも段々下がっ
てくる。
 やはり嫌われてしまったのだろうか。
 きっとルネが虫の知らせかなにかで気付き、姿を見せて
くれるだろうと、私は観葉植物の間から様子を伺っていた
が、厚い雲に塞がれた陽が沈み、陰鬱な気分で立ち去るし
かなかった。
 その夜のことだ。
 私の寝床にしている診察所で、生まれたばかりの赤子が
連れ去られそうになる騒ぎがあった。
 偶然居合わせた茜丸たちによって、赤子は無事であった。
もし連れ去られていたら、確実に診療所の経営が悪化し、
私たちも餌をもらえなくなっていただろう。
 今さら野良の生活など御免被りたい。
 そんな思いもあり、一応私も嫌々ながらも家主の後に付
いて、事件のあった病室に入った。どこにでもありそうな
病室で、窓とベッド、小さな箪笥があるだけの六畳間の個
室だ。
 母親らしき人間の女性が赤子を抱いてベッドの上でうず
くまっている。家主の医師が声をかけても叫ぶだけで、赤
子を離そうとはしなかった。
 医師が鎮静剤を母親に注射するのを横目に、違和感を私
は室内を観察した。
 母子のための個室になっているその病室は、窓から外を
見えるようにベッドが配置されていた。窓際の小物を入れ
る箪笥の上には花瓶に花が添えられている。
 臭いを探ってみると、茜丸、鈴、虎綴の他に、もう一つ
気になる匂いがあった。相当ゲロ臭いが、これが犯人の匂
いだろうと私は推測した。
 それらの匂いは窓の外に消えている。
 茜丸たちはすでにいなくなっているところから、逃げた
ホシを追っていったのだろう。人間に見られるのも好まし
くないだろうし。
 ようやく落ち着いたらしい母親の手からぐったりとした
赤子が取り出される。そこで私は違和感の正体がわかった。
赤子の泣き声が聞こえなかったのだ。
 おそらくは母親に強く抱きしめられたせいだろう、私た
ちが室内に入った時点で、赤子は息絶えていたのだ。
 連れ去られなかったかわりに、想いの余り母親に殺され
てしまった赤子。母親は鎮静剤から目覚めたときになにを
思うのだろうか。
 窓ガラスが散乱する個室には、白く長い毛がひらひらと
舞っていた。


 霧雨が降る翌夜、どこに行っても重い湿気が充満してい
た。
「最近、どうにも……なんなんだ」
「困っちゃったねー」
 私と囲炉裏を挟んで反対側の座布団で毛繕いしていた虎
綴が、まるで自分のことのように困った声を出した。湿気
のせいか、鮮やかな三毛の毛並みも少しくすんで見えた。
 私はまたしても鴉片堂でとぐろを巻いていた。
 いつもなら寝床に帰って餌をもらうのだが、今日は食欲
がなかったし、昨日の騒ぎのせいで診療所の人間は皆ギス
ギスしているのであまり帰りたくなかった。
 食欲がない理由は決まっている。今日もルネのテラスに
行ってみたが窓が開くことはなかった。
 限りなく望みが薄い感じがしてならない。
「……やっぱ嫌われたのかな。余計なこと言った覚えはな
いんだがなぁ。フラれちゃったのかねぇ」
「うう〜んうーんうーん」
 虎綴はどう答えて良いものか口籠ってしまったが、私は
もとより答えなど望んでいなかったので、唸る虎綴から視
線を外して溜息をついた。
 寝そべり、前肢の上に顎をのせて鬱々としていると、
「そう考えるのは早計ってワケよ、悩める子猫よ」
 やってきた茜丸が開口一番そう言った。子猫と呼ばれて
虎綴が反応していたが、うだうだやっている私に対する嫌
味だろう。
「どういうことだ?」
 私はシッポを振った。
 茜丸は虎綴と鼻を合わせてから、私を見下ろす位置に座
った。今日も首筋の毛が綺麗に逆立っている。
「巷で赤ん坊を攫う化け猫。昨日あんたのトコにもきたア
レ」
「うん?」
 突然、会話が在らぬ方向に飛び、私は間抜けな声を出し
てしまった。
「何か関係あるのか、あれが?」
「あるのよ」
 いつもの気持ち悪いオカマ口調ではない。珍しく茜丸が
真面目なイントネーションで即答した。
 こういうときは大抵面倒くさい事になっているのだ。
 嫌な予感が私の背筋に走る。
 茜丸の表情は影になり良く見えなかったが、金眼だけは
爛々と輝いていた。
「逃げ足だけは誉めてあげたいアイツ、白毛の化け猫だっ
たわ」
「それくらい大して珍しくもないんじゃないのか?」
「長毛種でビックリするくらいの美形だったわよ。処理対
象じゃなきゃお友達になりたいくらいのね」
 茜丸が長毛種の猫をここまで誉めるのを、私は初めて聞
いた。シャムやバーミーズ系のスマートな短毛種の信奉者
だったはずなのだが。
「外国の猫種らしいわ。あんた好みの舶来種」
「…………」
「えーと……なんていったっけ?」
 茜丸は底意地の悪い猫なで声を出した。
 既に私のあまり機能的ではない脳裏にも、一つの想像が
浮かんでいる。
「あ、僕、知ってる。の……の……の……」
 囲炉裏の向こうから虎綴の声が聞こえてきた。「の、の、
の」と連呼しているところから察するに、「の」が頭文字
らしい。
 私はもちろん心当たりが在った。
「……ノルウェージャン・フォレスト・キャット?」
「あぁそうそう。それよ。ノルウェージャン・フォレスト
・キャット」
 冷静でいるつもりだったが、ピクンと私のヒゲが動いて
しまった。鼻が少し乾いてるようにも感じる。
「よーく覚えがあるんじゃない? 今夜逢えるかもよ」
 こいつはよくもまぁそこまで人の傷口を嬉しそうにエグ
るものだ。
 睨む私を茜丸は笑い、踵を返す。虎綴が後を追った。
 揺れる数本のシッポを見ながら、私も付いていかざるを
得ないようだと諦めた。


 虫も鎮まる丑三つ時に、私と茜丸、虎綴、鈴はルネの住
処に忍び込んだ。
 ピッキングするつもりで茜丸は自慢の屍人『権三郎一号』
を連れてきたが、テラスの窓の鍵はかかっておらず簡単に
開いた。ついでに言うと玄関の鍵もかかっていなかった。
「レディの部屋に勝手に入ろうとしないのは立派だと思う
けどねぇ」
「…………」
「らしいっていえばらしいよね」
 茜丸と鈴の嫌味を黙殺して、虎綴、茜丸、鈴、私の順で
窓から室内に侵入する。
 一瞬で暗闇に眼が慣れる。
 室内はほぼ完全な暗闇である。鈴が鬼火を一つ出して照
らした。夜目の利く私たちには不要なものだが、玄関から
入ってきた権三郎一号が敷居に躓いて豪快に転んでしまっ
たせいだ。生前から眼が悪いらしい。じんべえを着込んだ
中年男性で仕事が出来そうな外見だが、案外鈍臭いとこが
ある。
「ここがルネの……」
 私の口から思わず声が漏れた。
 鬼火によって青白く浮き出る部屋の内部は思ったより広
かったが、この前より一層酷い状況になっていた。グチャ
グチャに散らかっている部屋に彼女の匂いは無かった。随
分前からこの部屋にはいないようである。
「あらま」
 浴室から緊張感の無い茜丸の声が聞こえてきた。
「ちょっとこっち来てみなー」
 呼ばれたようなので私も浴室に向かう。
 狭い洗面所兼脱衣所に足を入れると、洗濯機からは汚れ
た衣服がいくつも飛び出してるのが目に付いた。泥がこび
りついている。
 少量の水が流れる音を追うように、浴室に入る。扉はち
ょうど猫一匹分が通れるくらいの隙間が開いていた。
 浴室は広くもなく狭くもない。人間の平均身長の女性が
ギリギリ足を伸ばせるくらいの湯船と、体を洗うのに不自
由しない程度の洗い場。ピンクを基調とした壁と天井と小
物。おそらく蛍光灯も暖色系だろう。数種類の洗髪製品が
隅を陣取っていた。
「……あーあぁ」
 緊張感が無いと批難したが、私も茜丸と大差ないリアク
ションをしてしまった。
 まず眼に飛び込んできたのは湯船に沈んだ人間だった。
水の溢れる湯船の中に首までどっぷりと浸かっているよう
で、私からはコメカミから上の髪の毛しか見えなかった。
その頭上に向かってシャワーが弱めで出しっぱなしになっ
ていた。
「わ、なによ、これ」
 私の後ろかで鈴がぶっきらぼうに言った。
「これ、誰だがわかる?」
 シャワーの飛沫なんのそので様子を伺っている茜丸が、
首を少し前に出しながら私に訊いた。
「まぁたぶん……見てみないとわからんが……」
 濡れたくないので権三郎一号にシャワーを止めてもらい、
湯船に前肢をかけて、中の様子を確認した。
 水面に長い髪が蜘蛛の糸の如く揺らいでいる。水は透明
で、死体は服を着たまま湯船に浸かっているのがわかった。
 私は死体の顔を覗きこんだ。
 随分と様変わりした形相だが、覚えのある顔だった。
「……この部屋の家主だ」
「あー……そぅ」
 それは茜丸も予想していたらしく、大して驚かずに権三
郎一号に死体を湯船から出すように命令した。
 私と茜丸は濡れないように一旦洗面所に避難した。
「あの人死んじゃってるの?」
「たぶんね」
 顔を洗っていた虎綴と鈴が、シッポを絡ませながら囁き
あった。
「やっぱり飼い猫はいないわね」
 権三郎一号が緩慢な動きで家主を引きずり出すのを見な
がら、茜丸が独り言のように呟いた。
「…………」
 私は何も言えなかった。
 権三郎一号がズブ濡れになりながら洗面所まではみ出し
てきた。
「こら、ストップストップ。アタシたちが濡れちゃうじゃ
ないの」
 権三郎一号も四苦八苦した挙句、湯船から洗い場に上半
身だけ横たえて、下半身は湯船に乗っけたままの格好にな
った。
 権三郎一号を脇にどけて、私を除いた三匹が死体を検分
する。私は好き好んで見てみたいとは思わないので、洗面
所からボンヤリと眺めていた。
 先生の声が脳内に響く。
━━家主は死後三日くらい。ジーパンとカットソーを着衣。
死体の損傷が若干確認されるが、外傷は首と右手首。大量
失血によるショック死、あるいは心配停止が死亡原因と推
測━━
「動脈を切って死んだみたいねぇ」
「首にも傷があるわ」
「頚動脈にイッてるワケ?」
「ううん、こっちは浅いや。切り傷は剃刀かな」
「じゃこっちのが本命か」
「躊躇い傷が……三箇所。自分でやったみたいね」
「どっかに剃刀ない?」
「どこだーどこだー」
「湯船の底を調べてみて頂戴」
「あら」
 鈴が何かに気付いた。
「口の中に何か入ってるわ」
「ホント」
 茜丸が権三郎一号に命じて顎を開かせる。
「鈴、なんなワケ?」
「取ってみないと……ちょっと……わかんないわ……虎綴
っ!」
「あいな! うりゃーっ!」
 自分で取るのがイヤだったのか、鈴に命令された虎綴が
爪に引っ掛けて勢い良く取り出したそれは、クシャクシャ
に丸められた和紙であった。一度唾液が沁み込み乾いたそ
れはゴワゴワになっていた。
 茜丸が権三郎一号に開かせた。
 ふぅっと鈴が息を飲んだ。
「……茜、これって?」
「ふぅん」
 私もそれを覗いてみた。
 和紙の中には、猫の爪と根元から切り取られたであろう
シッポと人間の陰毛が包まれていた。和紙そのものには多
くの漢字の羅列と図形が墨汁で書き込まれている。
「う……ぬ……」
 埒外の私にもわかる。
 見るからに禍々しい怨念を籠められた呪物だった。
「あんたはあんま見ないほうが良いワケ」
 私の耳に息を吹きかける茜丸。
「な……何を……したんだ、この女は」
 天上に視線を逸らし、情けなくも震える声を出してしま
った。
 茜丸は私の問いに答えず、鈴に話しかけた。
「権三郎に開かせて正解だったわねぇ」
「虎綴は?」
「あれくらいなら問題なしよ」
「一応、梗子さんのとこで塩塗ってもらいなさいよ、わか
った?」
 爪を噛んでいた虎綴に鈴が年上ぶって言った。
「わかったー。鈴ちゃんも一緒に行こうよ」
「えー……しょうがないわね。ほら、爪噛むのやめーっ」
 妙にほのぼのした二匹と裏腹に、茜丸は困ったような顔
をしていた。
「飼い猫を使って祟ったわね、この女」
 それだけ小さく呟くと、権三郎一号に和紙を包み直して
女の口の中に戻し、死体を運ぶように指示した。
 私はあの美しいシッポだけでもほしいと思った。
 あのシッポに見覚えがある。


「多分うまくいくと思うワケ」
「そう願いたい」
 茜丸たちは私が寝床としている診察所に罠を仕掛けた。
巷を騒がせている化け猫を退治するためだ。
 昨日、攫い損ねた赤子を狙う可能性が高いので、誘き寄
せるには好都合なのだという。
 なるほど、話は私でもわかる。しかし、いざ自分の寝床
が荒事に使われるとなると話は別だ。正直、辞めて欲しい
のが私の心情だ。普段ならば。
 先生は少し難色を示したが、流鏑馬の御館様直々のお願
いということを茜丸が暗に仄めかすと、見て見ぬ振りを決
め込んで早々に寝てしまった。
 床に付く間際、私が茜丸たちに付き合うことを嗜めるよ
うな顔をしていた。
 当然といえば当然だ。化け猫は化け猫に任せておけばい
いのだ。わざわざ忌み事に首を突っ込むの愚かなことだ。
そもそも私の性分ではない。
 だが、私は結末を知らねばならないのだ。
 騒ぎを起こしている化け猫はおそらくルネなのだから。
 茜丸はとっておきの燈油をルネの飼い主の死体に塗りつ
け、ベッドに半身起こした状態で座らせておき、泣き喚く
赤子をその胸に置いた。
 死体は自らの意思をもって、あやす様にしっかりと赤子
を抱える。向かいの屋根の上からそれを見ていた私はゾっ
として気分が悪くなった。
「あれもそうなのか?」
 音を立てずに戻ってきた茜丸に、私は口元を押さえなが
ら訊いた。
「なにが?」
「権三郎と同じようにしたのかと聞いたんだ」
「あぁ……そうよぉ。ふやけてるし、呪われてるしで今回
限りの使い捨てだろうけど、餌としては上等でしょ……も
う、匂いがついちゃったかも」
 茜丸は悪びれもなくそう言った。
 私は気分とともに機嫌も悪くなった。
 死人を躍らせる化け猫の大家。それが茜丸の一族だった。
「……来たわ」
 かくして、赤子食いの化け猫はやってきた。
 白く長い毛並み、しなやかな体躯、鼻筋の通った美顔。
 私はその姿を見て眩暈を覚えた。まったくもって、あれ
は私の恋する猫そのものなのだ。人間の大人ほどの大きさ
と漂わせる臓腑の臭い、異様に長いシッポが二本ある以外
は、だが。
「ルネ……」
 飛び出しそうになる私を茜丸が抑えた。
「あれは君が恋している猫じゃないワケ」
「しかし……」
「思ったとおり、飼い主が憑いているわね。猫自身の自我
は眠っているのかしら」
 茜丸は鼻をヒクつかせた。まるで獲物を見つけたときの
ようだった。
 金色の眼は獰猛に輝き、耳を伏せ気味にしてルネを注視
している。
「別に無理して見る必要もないわよ。あんたには酷ってわ
かってるからね」
「心配無用」
 私は忠告を無視した。
「ふぅん……ま、いいけど」
 茜丸が色っぽい声で馬鹿にした。私は苛々しながらルネ
に注目する。
 彼女は私たちが見ているとも知らず、何かに誘われるよ
うに開け放たれた窓から室内に巨体を滑り込ませた。
「あの燈油はレア物なのよ。大抵の化け猫は惑わされるわ」
 二本足で立ち、左前肢だけをルネのいる室内に向ける茜
丸がそう説明した。
 ルネ━━もとい、化け猫は燈油の芳香に惑わされつつも、
飼い主の死体に訝しがり、しばらくの間、病室内をウロウ
ロとしていた。
「……大丈夫なのか?」
「ふむ」
「ほら、さっさと近づいてくれ」
 私にせっつかれたわけでもあるまいが、化け猫がおもむ
ろに赤子へと近寄りはじめた。
「アンタ、実は言霊使いかなにかだったりするワケ?」
「オマエラと一緒にしてくれるな」
「うふふ」
 茜丸が何事か唱え始めると、四本のシッポが大きく広が
った。
 いよいよ仕掛けるつもりらしい。
 私は一瞬でも見逃さないように、化け猫を凝視する。
「赤チャン……」
「えッ!」
「赤チャン……ドウシテ……言ッテクレタ……」
 私の耳に人間の女の声が聞こえた。
「奴の呪念よ。同調するとアンタが憑かれるわよッ!」
 茜丸が鋭く言った。
 赤子の大声で泣く声も同様に耳を突く。こっちは単に声
がデカイだけのようだが、化け猫の声から気を紛らわせる
のに丁度良かった。
 化け猫はベッドの上に乗り、飼い主の死体の匂いを嗅ぐ。
「アノ人ノ赤チャン……生ミタカッタ赤チャン……」
 化け猫が赤子を咥えようとした口を開けた瞬間、
「黄菊花都路っ!」
 茜丸が呪を放つと、赤子を抱えていた飼い主の死体の両
手が俊敏に動き、油断していた化け猫の前肢を掴む。
「……あっ」
 私が驚くと同時に赤子がピタリと泣き止み、
「にゃあ」
 と、一声鳴いた刹那、死体の腕を引き千切り、後方に跳
躍していた化け猫の首と胴が離れていた。胴体だけが窓側
の壁に激突し、頭部は空中に静止した。
「えっ……ア……」
 すぐに鬼火が化け猫を捕らえるように囲んだ。
「よしっ上々っ!」
 シッポを膨らませながら駆け出す茜丸。私は混乱しなが
ら後を追う。茜丸は躊躇せずに室内へ入ったので、私も覚
悟を決めて飛び込んだ。
 窓枠を踏み台にして、安全な床に着地する。
 まず私の視界に入ったのは赤子と死体が在るだろうベッ
ドだった。
「なっ……?」
 赤子から生えたシッポには鋭利な日本刀が掴まれており、
満面の笑みの赤子の姿が、いつの間にか虎綴へと変化して
いた。日本刀の切っ先には化け猫の━━ルネの生首が刺さ
っており、私は澱んだ眼を直視してしまった。
 やはり私には少々酷だったらしい。突き上げるような吐
き気と頭痛がしてきた。
「……糞ッ!」
 どうにか我慢して部屋の全体に注意を向ける。強烈な燈
油の香が全ての匂いに蓋をしていた。おそらく化け猫を誘
い出すためだけでなく、赤ん坊に化けた虎綴に気付かせな
いためでもあったのだろう。それくらい室内に充満してい
る燈油の匂いはきつかった。
 化け猫の頭部と胴体の切断面からはまだ血が出ていない。
痙攣もなく、驚くほど静かに倒れている。
「どうするの?」
 大きな鬼火をいくつも纏った鈴が、化け猫に近寄りなが
ら訊いた。
「そうねぇ。飼い主の魂は神階宮に送るから、火車に入れ
ておいて頂戴。そのイレモノはさっさと弔ったほうが良い
わね」
 茜丸が私を見たが、無表情で通した。感情を露わに出来
るほどの余裕がなかった。
 ルネは殺されたと考えるべきなのか。
 目の前の光景に、私はいまいちピンときていなかった。
「わかったわ」
 鈴が頷くと、鬼火の一つが化け猫の胴体にくっつく。す
ぐに化け猫の身体は焔に包まれた。
「うまくやったわね、虎綴」
 茜丸が大きく伸びをした虎綴に労いの言葉をかけた。
「うん。でもちょっと怖かった」
「ほら、刺さってるそれも焼いちゃいなさいよ」
「はーい」
 三本のシッポで?んだ日本刀を思いきり振り、剣先に刺
さったルネの首を燃え盛る焔へと投げ込んだ。少量の血が
軌跡を描き、焔に包まれたルネの首からモクモクと白い煙
が立ち昇る。
 私は燃え上がる弔いの焔を悲しい気持ちで見ていた。
「形見でもほしかったかしら?」
 茜丸が感情を込めずに訊いてきた。
「意味が無いよ、そんなもの。忘れるだけだから」
「アンタってば……まったく、仕方ないわね」
 茜丸が嘆息して、和紙に包まれていたルネのシッポを焔
に投げ入れた。
「たちわかれ いなばの山の 峰に生ふる 松とし聞かば
 今帰り来る」
 茜丸が在原行平の和歌を唄うと、不意に焔の一角が消え、
一匹の雌猫が静かに佇んでいた。
「ルネ……か?」
 雌猫が微笑んだ。
 フワフワとした灰褪白色の美しい長毛、ハッキリした紅
鼻と大きな金色の眼が私を見ていた。しっかり元のシッポ
もある。
 まさしく私が恋した猫が焔の中にいた。
「あの猫は飼い主の祟りに協力してしまったからね。当分
は御山で奉公することになるわ。話すなら今がチャンスっ
てワケ。まごまごしてると改め方が来ちゃうわぁ」


 初めて会ったときの姿そのままに彼女は座っていた。
 ルネはやや伏せ眼がちに、両前足を揃えて座っており、
先ほどまでのおどろおどろしい雰囲気は微塵もなくなって
いた。
 焔が彼女に触れても、白く長い毛が燃えることは無かっ
た。
 しばらく、といっても一分も経っていないだろうが、私
にはとても長い時間、ルネを眺めていたように思う。
 気がつけば、茜丸たちはいなくなっていた。
 あいつらはいつも変に気が利くのだ。
 そこもまた気に食わないのだ。
「…………」
 恋の相手に別れを告げなければならない。しかしなんと
言えば良いのか。
 真っ当な別れでも苦心するのに、罪を犯した化け猫とし
て御山へと帰る相手にかける言葉を私は持っていなかった。
 そんな私を見て、彼女は笑った。
「いいのです。わたしのような愚かな猫に優しい言葉など
必要御座いません。他の猫と同じように罵倒してください」
「いやっ、私はそんなつもりでは……」
 淡々と語りだす。
「わたしは今までも、前世から、ずっとずっとその前から
飼い猫として転生してきました。野良猫として生きたこと
はないのです。私自身それでよかった。でも、今回は生ま
れた途端に捨てられて……野良猫になるのはすごく怖かっ
たんです。このまま死んで御山に戻ろうと思ったときに、
今の飼い主に拾われて……」
 ルネはそこまで一気に捲くし立てると、急に声のトーン
を下げた。
「馬鹿な猫と笑って下さい。あの人を見捨てられなかった
のです。私を見捨てなかったあの人を……猫族として失格
ですね」
「…………」
 雌猫は情に深い。家ではなく人に懐いたのだ。恩に報い
りたかったのだろう。
 例えそれが大きなリスクを伴うとしても。
「決して褒められたことではないけれど……あの姿になっ
て、外を駆け回るのは凄く気持ちが良かったです」
 ルネは舌を出して笑った。
「覚えているのかい?」
「なんとなくですけれど……いつかまた、自分の足で外に
出ます。きっと、ずっと先のことだろうけれど……御山で
一生懸命修行します。あなたに会えて良かった」
 これで、むしろ清々しく彼女は御山に行ける。
 そう、彼女は言った。
「また会えるといいな」
「ええ……またどこかで」
 焔が消え彼女も塵と散り、御山に帰っていった。

 半月後、彼女の奉公先の旅館を茜丸から聞いたが、私が
そこを訪れることは無かった。







 了



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