『犬歯@DOG TOOTH』 2007/4/5



「わたし、パレードがいなくなったらきっと死んじゃうわ」
「それ何度も聞いたわよ」
 すぐ隣を歩くクラスメイトの昭子がつまらなそうに言っ
た。
 下校中の住宅街。赤い煉瓦の坂道。茂み始めた街路樹。
 空は青く澄み切って、そよ風と人の生活臭が地面を駆け
る。
 同じ区画に住むわたしと昭子は、用事がなければ大抵高
校から一緒に帰る。
 休みの日も頻繁に遊ぶ。
 幼馴染だった。
「だって、そうなんだもん」
「そうなんだもんって……いい加減そんな年じゃないじゃ
ん、わたしたち。不思議っ子だった勘違いされるわよ」
「いいもん、されたって」
「そうなったらあんたと縁切るからね、わたしまで勘違い
されたらたまんないわ」
「昭子よりパレードだもーん」
 わたしは鞄を振って彼女を遠ざけた。
 昭子はトトンと横に跳んだ。
 わたしより3センチ短いチェックのスカートが揺れる。
「あんたねぇ」
「わたしにとってパレードがいちばんなんだから」
 わたしは常々そう言って過ごしている。
 世間から見て、ややおかしいことは自覚もしている。
 昭子からは何度も依存し過ぎだと言われた。
(パレード……)
 わたしは目を閉じて想像する。
 パレードとはわたしの家で飼われているゴールデンレト
リバーのことだ。金色の毛並みが綺麗なオス犬で、三年前
からわたしたちの家族なった。
 父が会社の帰り道で拾ってきたのだ。
 母は最初反対していたが、父親とわたし、特にわたしの
強引な説得に渋々折れた。そんな母も、今ではパレードの
いない生活は考えられないと言っていたりする。
 パレード自身は落ち着いた性格で、ほとんど吠えたり咬
んだりしないデキた犬なのだ。
 すぐに家族の一員として溶け込み、全員に懐いてくれて
いる。
 寂しいときには気遣って傍にいてくれたりもする。
 初めて会ったときから、わたしは彼に心を奪われたまま
だった。

「ただいまー」
 わたしが玄関に腰を下ろし鞄を脇に置くと、立ち上がれ
ばわたしの背と同じくらいになる大きな身体とシッポを揺
らして、パレードが二階から降りてきた。
 おそらく二階の父の書斎で寝ていたのだろう。
 パレードの身体から暖かい日差しの匂いがわたしの鼻を
くすぐった。
 夕日を反射する革のパンプスを急いで脱ぐ。
 我が家の玄関は採光窓が多く、今日のような西日の強い
日は玄関一面が真っ赤に染まる。
 わたしの身体も、パレードの金色の毛並みも━━ 
「たっだいまぁ、いい子にしてた?」
 わしゃわしゃと頭を撫でながらパレードに問いかけると、
彼は口を少し開けて返事らしい顔をした。吠えるわけでは
ないこの微妙な表情、わたしはこの顔が好きだった。
 パレードはゆっくりと目を細めてわたしの顔を覗き込む。
 西日を写す黒い瞳は、まるで暗闇のなかで燃え上がる焚
き火のように、幻想的で神秘的だった。
 人間にはない、深さのある眼だ。
「佐恵子―、帰ったのー?」
 リビングから母の声が聞こえた。
「うん、すぐ散歩行くねーっ!」
 わたしは大声で母に返事する。
「待ってね、すぐに着替えてくるから」
 パレードの背を一撫でし、わたしは駆け足で二階に上が
る。パレードはそのまま玄関に座って待つ。
「よっと」
 自室に入るなり鞄をベッドに投げ、制服から動きやすい
私服に着替える。髪の毛がくしゃくしゃになったり、ブラ
がズレたりしたままだが構わず部屋を飛び出す。階段を降
りながらブラを直す。
 玄関で静かに待つパレードを横目に、リビングに顔だけ
出して母を捜す。いや、捜すというよりも、リビングの中
に視線を泳がせながら言い放つ。
「じゃパレードといって来るねっ!」
 結局、母は見つからなかったが、わたしは踵を返し玄関
に向かう。
「気をつけるのよーっ」
 背後から母の声が聞こえてきた。おそらくキッチンの奥
のほうにいたのだろう。よくあること。
 座っていたパレードがシッポを振りながら立ち上がる。
 玄関の靴箱の上にある鏡で髪を直し、青いリードをパレ
ードの首輪につける。
 赤い玄関にパチンと金具の音が響く。
「よっし、行こっパレードっ!」
 散歩掃除セットを手に持ち、わたしは玄関を開ける。
 一歩踏み出せば、一日で最も充実した時間が始まるのだ。

「見て見て!」
 数日経った学校の教室。
 女子高なので、もちろん女子しかいない。ふざけている
のも女子、参考書を開いているのも女子、ネイルケアして
いるのも女子、教室に出入りするのも女子━━
 わたしは眠そうに教室に入ってきた昭子にイの一番で駆
け寄り、アクセサリーを見せた。
「おはよ……なにそれ?」
 昭子は目の前に差し出されたシブいアクセサリーを凝視
した。
「ごめん……まだコンタクトしてないのよ」
「やん、もう! ちゃんと見てよ」
 わたしは催眠術をかけるようにアクセサリーを左右に振
る。それは焦げ茶の鼈甲細工の飾りにフサフサした毛の束
が付いたものだった。
「もしかして……パレードの?」
「あったりーっ! パレードの抜け毛を集めてアクセサリ
ーにしてみたの。筆みたいで可愛いでしょ?」
 ススっと昭子の首筋をそれで撫でると、彼女は嫌がって
身を仰け反らせた。
「やめてよ。しかしそれまたすごいわねぇ。自分でやった
の?」
「ううん、こういうの作ってくれる職人さんが居るのよ。
けっこう高かったんだよ」
「そうでしょーね」
「おかげで来月のお小遣い前借しちゃったんだから」
「あ、そ」
「もうなによー、もうちょっと良い反応してくれてもいい
のに」
 少し呆れている昭子にわたしは頬を膨らませた。こんな
ツレナイ態度は心外だった。みるみる機嫌が落ち込んでき
たが、
「え、それ、佐恵子さんの飼い犬の毛なの?」
「うん、そうよー」
「え、ホントに? 見せて見せてー」
 他のクラスメイトが興味津々といった感じで話しかけて
きたので、わたしは得意気に会話を広げることで、なんと
か持ち直した。
「すごーい、これ気持ち良いっ!」
「でしょぉ! でも本物はもっと気持ち良いんだから」
「これどこでやってもらったの? 駅前の○×アクセサリ
ー?」
「ううん、あそこもやってくれるみたいなんだけど、凄く
高くてさ。S区のアクセサリー屋さんがこういうの専門で
やってるってネットで見たから、そこに頼んだの」
「いいな〜、わたしの飼い猫のも作ってもらおうかなぁ〜」
「猫のは毛が細くて柔こいから、材料がたくさんいるらし
いよ。中で固定するのも犬よりずっと手間がかかるから、
値段も高いみたい」
「ウチのイグアナは毛がないからなー。こういうの作れな
いわ」
「鞄にできるんじゃない?」
「やめてよ、ちょっとーっ!」
 盛り上がるわたしたちの横で、昭子は大きな欠伸をして
いた。

「パレードってば父さんにとっても懐いてるのよ。私のほ
うがパレードと一緒にいるのになぁ。悔しい」
 すぐ隣を歩く昭子に握り拳を見せながら、わたしは口を
尖らせた。赤い煉瓦がより赤く輝いている。昨日よりもず
っと赤い夕日だった。
『夕日が美しいのは、誰かが泣いているからだ』
 わたしは、昔、父から聞いた詩を思い出した。
 泣いているのが誰なのかは教えてもらえなかった。
「パレードって佐恵子のお父さんが拾ってきたんだっけ?」
 昭子が夕日に顔を顰めながら言った。
「そう、会社の駐車場に捨てられてたんだって」
「拾ってくるなんて酔狂ねぇ」
「目が合っちゃんだって」
「目がねェ」
「眼鏡?」
 わたしと昭子の視線が交錯する。
 二人の歩みが止まる。
 夕日が二人の影を濃くしている。
「昭子」
「なに?」
「眼鏡、もうしないの?」
「……さぁ、どうだろ」
「眼鏡似合ってたのにぃ」
「好きでしてたわけじゃないわ」
「そうなの?」
「それにあたし、目が悪いこの感じ嫌いじゃないもの」
「えー、そうなの? なんで? 怖くないの?」
「裸眼でもちょっとボンヤリするくらいだから、そんな不
便なわけじゃないわよ」
「ちゃんと見えないと危ないと思うなぁ」
「ちゃんと見えないほうがいいモノだって、いっぱいある
わよ」
「なにそれ?」
「例えば……そうね」
 昭子は夕日を見ながら、独り言のように━━
「心の裏側とかかしら、ね」
 呟いた。

「ただいま、パレード」
 今日は玄関で寛いでいたパレードがシッポをゆっくり振
り、舌を出してわたしを出迎えてくれた。
 玄関は夕日を取り込み、気味が悪いくらい赤く彩られて
いる。
 わたしはうっとりしながら、パレードの首の毛をわしゃ
わしゃとかきあげて、彼に礼を言う。
 パレードも大人しく私の為すがままにされていた。
「ちょっと待っててね。母さんただいまーっ!」
 わたしは靴を乱暴に脱いで、二階の自室に小走りで向か
い、パっといつもの私服に着替え、うるさく階段を駆け下
りる。
 我ながらハシタナイなと思う。
「散歩いってくるねーっ!」
 パレードの首輪にリードをつけながら、おそらくキッチ
ンにいる母に声をあげる。
「あ、佐恵子―、ついでに『◎@パン』でパン買ってきて
ー」
 母が大声で言った。
 いつも朝食で食べる食パンを買ってこいと言っているの
だ。そうなるとパレードとの散歩はやや遠回りになる。
 でも私は嫌がらない。パレードと少しでも長く散歩でき
るのだから、望むところだった。
 わたしの両親は外出に関しては厳しいほうなので、理由
もなしに外をフラついていられない。さすがに門限云々と
いう話はないが、連絡もなしに遅くなると怒られる。
 パレードと散歩して、夕飯ができている時間になっても
帰らなかったときは、正座させられこってりと絞られた。
「一斤で良いのー?」
「そうよーっ! あ、お金持ってるーっ!?」
「あるよぉーっ!」
「後で渡すから立て替えておいてくれるーっ!?」
「わかったーっ! いってきまーすっ!」
 玄関の扉を開ける。
 外はさっきよりもずっと赤くなっていた。
 パレードが大きな身体を揺らして前に出る。
 柔らかな尻尾がわたしの脛を撫でた。
 いつもどおりの日常を噛み締めて、わたしはパレードと
一緒に歩き出す。
 赤い夕日の街。
 真っ赤な世界。

「今日はあっちの公園を通っていくよ」
 歩道橋に登ろうとするパレードを制し、真っ直ぐ歩く。
 パレードは一瞬首を傾げるようにわたしを見ていたが、
いつものルートから外れるのが嬉しかったのか急ぎ足でわ
たしを追い越した。
 歩道には帰宅するサラリーマンやOLの姿が多い割には、
車道に車の姿はなかった。わたし達の他に犬の散歩をして
いる人たちもチラホラといる。
「今日の夕日なんかすごいね」
「明日雨降るかもよ」
 すれ違ったOLの一団の談笑が流れて消える。
「赤すぎて、どこか嫌味な夕日だな」
「明日は雨かもしれませんね」
 すれ違ったサラリーマンの一団の談笑が流れて消える。
「明日雨降るのかな? 夕日となんの関係あるんだろ?」
 わたしはパレードに訊いた。
 彼は他の犬を見るのに忙しいらしく、シッポを振るだけ
だった。
 公園に入るとパレードが興奮したように歩を早める。わ
たしもつられて早歩きになりながら、反対側の公園出口を
目指す。
 途中何人か見知った知人に挨拶する。皆、犬の散歩を通
じて知り合った人たちだ。散歩のときに偶然会うか会わな
いか程度の関係だが、挨拶くらいはする。
 目的の『◎@パン』はこの公園を通り抜けた大通りの更
に向かい側にある。
 我が家は『◎@パン』の食パンを長年買い続けている。
牛乳がたくさん入っていておいしいのだ。母の手作りのジ
ャムにとてもよく合うので、わたしも大好物だった。我が
家であの『◎@パン』の食パンを食べないのはパレードだ
けである。
 いつもは母親が仕事帰りに買ってくるのだが、今日のよ
うにパレードの散歩のついでに寄ることもある。
 公園を抜け大通りの歩道に出る。
 片道三車線の大きな県道だが、車の通りは少なかった。
 反対側に『◎@パン』が見えるが車道を横切るわけには
行かないので、少し先にある交差点に向かう。
 ちょうど良く青信号だったが、わたし達が渡りだすと点
滅し始めた。
「パレード、急ご」
 わたしの言葉がわかったのか、パレードは軽く走り出す。
わたしも遅れないように横断歩道を走る。
 渡りきる直前、最後赤い白線のところで、不意にパレー
ドが立ち止まった。
「どうしたの? パレー……」
 ドを言うことが、わたしは出来なかった。
 車のブレーキの音と大きな衝撃音が聞こえた瞬間、わた
しの真横を鉄の塊が通過していた。
(え……?)
 黒いその塊は、リードを飲み込んみ、パレードがいるは
ずの空間を呑み込む。
 巻き込まれたリードに引っ張られ、手を離す間もなく、
わたしは顔面から硬いアスファルトに叩きつけられた。
(…………ッッ!)
 鈍い音が頭蓋骨の中に響き渡る。
 何かが折れたと思った。
 目の前が真っ黒になった。
 ただ身体は無力で、為す術なく私は引きずられる。アス
ファルトがザリザリとわたしの身体を削った。
 グルグルと世界が回る。
 それでもわたしはリードを離せなかった。
 黒い塊がビルの壁に激突すると、わたしもようやく止ま
ることができた。
「うぅ……う……げぅッ……」
 口の中が苦い。
 わたしは口内から血が流れ出ていることに気を取られる
あまり、顔面と頭からも出血していることには気付かなか
った。
「…………」
 やんわりと視界が回復する。
 赤っぽいのは夕日のせいか、血のせいか。
 目の前にはボンネットがひしゃげ、フロントガラスに蜘
蛛の巣のようなヒビが入った車があった。
 フロントガラスには大量の血と何か豆腐のようなものが
へばり付いている。
 酷い耳鳴りに混じって、かすかにクラクションの音が聞
こえる。
(なんなの……)
 呆然としながら、決して離さなかったリードを引っ張っ
てみる。
 ゆっくり持ち上がったリードはビンと張り、それ以上動
く気配がなかった。
 リードの先は車とビルの壁に吸い込まれていた。
 わたしの心臓を、釘が打ち込まれたような痛みと衝動が
襲う。
「パレード……ねぇ……パレード……」
 ぐいぐいとリードを何度も引っ張る。その度にわたしの
血がアスファルトに落ちる。
 わたしの顔の左半分は血で隠れてしまっているようだ。
左目が開けづらくなってきていた。
 身体中が火傷した様に痛い。耳鳴りが止まない。リード
を引っ張るたびに、肩から首に激痛が走る。
 でも、パレードがあの中にいるのだ。
(助けなくちゃ)
 徐々に人が集まり始めていた。
「あ……ぁ……」
 声が出ない。
 喉が震えて、うまく発声できない。
 遠巻きに見守る人々。
 誰か一人でもいい。
 パレードを助けるのを手伝ってもらいたかった。
 そうして早くここから逃げ出したかった。
(パレード……帰ろう……はやく……ねぇ……ねぇ……)
 何度も引っ張るうちに、リードを伝って、一滴二滴と血
が垂れてきた。
 その血がなんなのか、なにを意味しているのか考えられ
なかった。
ぎこちなく横断歩道を振り返る。
 黒くうねるタイヤ跡の上に、金色の毛がへばり付いてい
る。グチャグチャに描き殴ったようなピンクの肉片の分布
が自分に近づくほど大きく広がり、タコ糸のような繊維の
先には見慣れた金色の右足だけが、ゴロンと赤く染まって
いた。
「ひ……ぁ……ア……」
 わたしの目を涙が覆い始める。
 リード引っ張る力は次第に強くなり、少しずつリードが
ずれてくる。ブチリブチリと鳴りながら。
 おぞましい感触が手に伝わってくる。
「ねぇ……パレード……返事してよ……ねぇ……ねぇ……
ねぇ……」
 蛇口を捻ったように、赤黒い血液がリードを這い、流れ
てきた。
 
 夕日が沈み、わたしは救急車に乗せられるまで、リード
を引っ張り続けた。
 

「見て見て」
 曇天の下校時間。
 わたしは昭子にニっと笑って歯を見せた。
「あの子の歯をここに入れてみたの」
「ここ?」
「ここよ」
 わたしは一本の歯を指差して言った。上の歯の左の犬歯。
 事故のあった日、折れてしまった歯の一本。
「あの子って……パレードの……?」
 昭子が声のトーンを下げた。
 あの事故に関して、昭子はわたし以上に神経質になって
いた。
 いつも悲しそうな顔をする。
「昨日やっと歯医者の通院終わったのよ。今までマスクし
てたのだってこれのためなんだから」
「でもそれ……犬……の歯でしょう?」
 昭子はわたしの顔を一瞥すると、すぐに煉瓦の歩道に視
線を落とした。
 怪訝そうだった。
 そんな彼女にわたしはあっけらかんと言う。
「変わんないわよ、結局神経はつながってないんだし」
「そうかもしれないけど……お父さんとかは……知ってる
の?」
「……ううん、秘密。病院の先生にわたしがお願いして、
黙って作ってもらったの。だからお願い。わたしの家族に
は言わないで」
「そりゃ言わないけど……なんかおかしいこと起きたら、
ちゃんと言うよ。いい?」
「……うん、わかった」
 昭子とわたしはしばらく押し黙って歩いた。雲が低く暗
く、今にも雨が降ってきそうだった。
 顔は動かさずに、目だけを動かしてそっと昭子の表情を
探った。空と同じくらい暗い顔をしている。
 昭子はわたしが入院している間も、通院している間も、
出来る限り一緒にいてくれた。わたしは心から感謝してい
るのだが、時折、今のような陰を纏ってしまう昭子が不思
議だった。
 ともあれ、彼女にだけはパレードの犬歯を埋めたことを
伝えておきたかった。
 できれば理解して欲しいとも思っていた。
「やっぱり……ちょっと気持ち悪いよね、あはは」
 ぎこちなく笑いながら、わたしは雰囲気を和ませようと
した。
 もちろん失敗した。
「佐恵子……あたしそんなつもりじゃ……」
「いいのいいの」
 動揺する昭子を、わたしはニヤリと微笑んで、なだめた。
「でも……これでずっとパレードと一緒なの……ね、可愛
いでしょ……ねぇ……ねぇ……」
 わたしは無意識のうちに、スカートのベルトにつけたパ
レードの毛を纏めたアクセサリーを弄くっていた。

 その日以来、徐々にわたしの奇行が目立つようになって
いった。
 こんなことがあった。
 昭子とウィンドウショッピングをしに駅前へ遊びに行っ
たとき、彼女がクラスメイトと出会い、少し立ち話してい
たときのことだ。
 昭子はわたしを気遣ってくれていたが、クラスメイトを
無碍にすることもできず、わたしも「いいよいいよ」と言
って、昭子から少し離れることにした。
 とはいえ、わたしはすることがなく手持ち無沙汰で、街
灯に寄りかかっているだけだった。
(次はどこ行こっかな)
 ボーっと昭子とクラスメイトを眺める。
 と、不意に尿意が下腹部に走った。
(ん……やば……いかな)
 目を瞑って、語りかけるように意識を傾ける。トクント
クンと心臓の鼓動が早くなる。我慢できないほどではない
のに、早く『したい』欲求が抑えきれない感じだった。今
までに経験のない感情にわたしは戸惑った。
(さっき飲んだ紅茶のせいかな……さっきトイレあったけ
ど……)
 昭子に黙っていくのはマズイと思う。しかして、わざわ
ざ断りに行くのも今さら変な感じだった。
(携帯にメール入れとこうかな……でもなぁ)
 それも昭子におかしな気遣いをさせてしまいそうで避け
たかった。
 グルグルと思考が空回りし、我慢できずわたしは座り込
んだ。目を閉じて気持ちを落ち着かせる。
(いっそのこと、ここでしちゃいたいなぁ……)
 ここにしなければならないような、そんな突拍子も無い
ことを、わたしは平然と考えていた。そうすれば、きっと
昭子もクラスメイトとの話を止めてくれるんじゃないか、
と。クラスメイトも気を利かせて離れてくれるんじゃない
か、と。
「さ……佐恵子?」
 いつの間にか昭子が寄り添っていた。彼女と話していた
クラスメイトの姿は、既になくなっていた。
「あ、もういいの?」
 わたしは犬のように昭子を見上げた。昭子の瞳には不安
の濁りがありありと浮かんでいた。
「ごめんね、待たせて……大丈夫? 佐恵子?」
「え……?」
 昭子が困惑するはずだった。
 わたしは四つんばいになり、まるで犬がおしっこを引っ
掛けるように片足を浮かせていたのだ。
「あ……やだ……わたし、道で何してるんだろ……おかし
いよね」
 笑いながら慌てて立ち上がると、酷い立眩みがわたしを
襲った。目の前が真っ黒になり平衡感覚が回っていた。
「…………」
 昭子は心配そうに見ていたけれど、わたしは何食わぬ顔
で、立眩みが治まるのを待っていた。

 わたしは家に帰ると、悲しくなる。
 玄関に入って、立ち呆けていることが頻繁にある。長い
ときは一時間以上もそうしていることもある。パレードが
二階から音も無く降りてくるんじゃないか。リビングから
静かに駆けてくるんじゃないか。そんな想いに囚われて、
わたしは靴を脱ぐことができないのだ。そのまま泣いてし
まうことだってある。
 パレードがいないのはとてもツラい。
 自室にいてもパレードのことばかり考えてしまうので、
大抵ベッドにうつ伏せになったまま眠ってしまう。せめて
パレードに夢で逢えるように願いながら、涙を布団に染み
こませる。泣きながら起きて、また泣く。
 退院して以来、涙に暮れる毎日。
 そんなだから、母の作ってくれる食事もおいしくない。
おいしくないというより、味がしない。なにを食べても無
味乾燥としているのだ。箸を動かしながら、パレードもも
っとご飯食べたかっただろうなと考えてしまう。
 どんなに食べても、母の料理では満足感を得られなかっ
た。
 食後、ティーパックで淹れた紅茶に角砂糖を五つ溶かし、
父と一緒にリビングでTVを見ていると、
「これ、いい加減捨てないといけないわね」
 キッチンの隅から母の声が聞こえた。TVのボリューム
がそれなりに大きく、母の声はほとんど掻き消されていた
にも関わらず、その呟きはハッキリとわたしの耳に届いて
いた。
 嫌な感じがゾワゾワとわたしの背筋に走った。
 振り向いて母の姿を捜すが、しゃがんでいるのか、どこ
にいるのかわからなかった。
「……ナニヲ?」
 痰が咽喉にからんで上手く発音できなかった。自分でも
ビックリするようなひゃがれた声が出た。
「あんた、なんて声出してるのよ」
「んっ……大丈夫……それより何を?」
「聞こえてたの? これの事」
 にゅうっと母の腕がダイニングテーブルの上に伸びる。
その手にはパレードのドッグフードの袋があった。
「どうしようかしら」
「どうするの?」
 母の声は異常なほど平坦で無機質だった。
「やっぱり捨てるしかないわね」
「待ってっ!」
 わたしは慌てた。
「えっと、捨てるよりも、わたし、犬飼ってる友達いるか
らその子にあげてもいい?」
「あら、そう。それならそのほうがいいわね」
 母の手だけがわたしの視界の中を動き回り、ドサドサと
パレードのドッグフードをダイニングテーブルに置いてい
く。
 全部で新品計五袋。
「じゃあ、学校にもらっていくね」
「重いかしら」
「ううん、大丈夫」
 わたしはそれらを一掴みで持ち、キッチンを後にする。
大丈夫と言ったものの、それなりの量があるので腕が痛く
なってしまった。父に手伝ってもらってもよかったかもし
れない。
「ふぅ……」
ドッグフードを自室の机に運び込み、その一つの封をおも
むろに開ける。犬の餌独特の匂いが鼻についた。
「…………」
 袋に手を突っ込み、掴み放題のような気分で餌を取り出
す。わたしは少し顔をしかめながら、その固形餌を口に持
っていく。
 ガリガリと噛む度にスパイスの効いた味が口内に広がる。
ボロボロと口から固形餌が落ちるが、わたしは気にせずに
食べ続けた。自室で食べるのはすごく気が楽だった。
(でも、やっぱり……おいしくないなぁ)
 そうは思うが、わたしは食べるのをやめなかった。
 パレードが食べているような気がしたのだ。

「ねぇ、お父さん」
「ん……どうした、佐恵子?」
「えっとね、一緒に散歩いかない?」
 パレードが居なくなって以来、わたしは父との距離が近
くなったような気がする。父が家にいるときは、できるだ
け近くにいるようになった。パレードの死は、父にも大き
な傷を残したようで、。やはりどこか元気が無いように私
には見えていたのだ。
 当然、父もツラいのだろう。わたしが入院したことも重
なり、心労が祟ったのか、随分と憔悴していた。
 わたしが家に戻って、ようやく調子を戻せるようになっ
たらしい父をわたしは支えてあげたかった。
「ここもよくパレードと散歩したんだよ」
 住宅街の中、街路樹が散立する小道を父と共に歩く。ち
らほらと犬の散歩をしている人が目に付いた。
「仕事ばかりでパレードとロクに散歩してやれなかったな
……」
 子犬の散歩をしている親子を見ながら、父は肩を落とし
て言った。
「もっと可愛がってやるべきだったなぁ。あの子はわたし
を恨んでいるだろうなぁ」
「そんなことないよ、父さん」
 それは咄嗟に口を突いて出た。
「たまにだけど、頭撫でてくれたのはホントに嬉しかった
よ」
「佐恵子?」
「……えっ?」
 父が驚いた顔をしている。それ以上にわたし自身が驚い
ていた。
 犬の遠吠えが聞こえた。
 わぉんわぉんと散歩中の犬が一斉に吠え始めた。まるで
共鳴するかのように、遠吠えの渦はどんどん広がっていく。
「どうしたんだ?」
 父が両耳を押さえながらキョロキョロと周りを見回した。
他の飼い主達も、自分の飼い犬の異変に驚いていた。頭を
撫でたり、抱きしめたりしながら必死に落ち着かせようと
している。
 そんな中わたしはといえば、父のように耳を塞がず、た
だ犬たちのアンサンブルに身を任せた。
 ハッキリと、パレードの遠吠えを聞いていた。
「きっとそうだよ」
 わたしは父の腕を取り、遠吠えしながら歩き出した。

 夜風が舞う自室。
 バサバサとはためく白いレース、開けっ放しの窓の向こ
うに星の無い宇宙が広がっている。
 フローリングの床に寝っ転がるわたしの髪も乱暴に翻る。
「わたし、パレードみたいだって父さんに言われたよ」
 ガリガリと固形ドッグフードを齧りながら、アルバムに
収まっているパレードへ話しかける。パレードのドッグフ
ードも残り少なくなってきていた。おやつ代わりに齧るの
も慣れてしまった。
 突風が吹き込み、飲みきったミネラルウォーターのペッ
トボトルがコロコロと転がっていく。
「パレードもきっと父さんに甘えたいよね」
 部屋のどこかにパレードがいるような心持ちで、わたし
は呟いた。
「ねぇパレード……わたしにできることある?」
 アルバムのパレードは穏やかに舌を出している。次のペ
ージには餌を食べているパレードが写っていた。
「あなたがしたいこと……わたし、してあげたいな」
 目を瞑れば、確かに彼の鼓動を感じる。

「パレードがね」
「え……」
「パレードが最近すごくご飯食べるのよ」
「さ……佐恵子?」
「前は朝と晩ぐらいにしか食べてなかったのに、最近はお
昼と夜食も加えてね、四回もたべるんだから。でもよく吐
いちゃうんだよね。それなら食べなきゃいいのにってわた
しは思うんだけど」
「…………」
「お父さんとも頻繁に散歩してるみたい。お父さん、もっ
とパレードと遊びたいって言ってたからよかったわぁ」
「…………」
「なんか色んなところに行ってるみたい。ほら、区役所の
向こうに運動公園あるじゃない? あそこまで歩いていく
のよ。わたし、まだ行ったことないのにね」
「…………」
「でもパレード、最近おしっこの回数多いみたいでさ、外
だと人が居ないところ探すの大変なの。病院に連れて行っ
たほうがいいのかなってお父さんが言ってて……」
「…………」
「パレード、寝るときもお父さんの布団に行くんだよ。前
までは書斎の椅子で寝てたんだけど。最近ホントお父さん
に甘えてるんだよねー」
「…………」
「今まではこんな露骨にお父さんにくっついてなかったん
だけど……わたしはちょっと寂しいんだ、あはは」
「…………」
「どう思う、昭子?」
「…………」

「佐恵子、少しこっちにきなさい」
 夕飯の後、父に呼ばれ家族揃ってのティータイム。
 珍しくティーパックではなく、父が葉っぱを濾して淹れ
た紅茶。母が昼間作っていたらしいオレンジの皮を使った
プレーンケーキ。
 イヤらしいほどの家族団欒の絵に、わたしは少々戸惑っ
ていた。父の趣味が紅茶なことも、母の趣味がお菓子作り
なことも昔からのことだが、わたしの記憶する限り、二人
の趣味がこうして同時にテーブルの上に出てきたの初めて
だったと思う。
 あまりにも香ばしい。
「……どうしたの?」
 わたしは紅茶を飲みながら、上目使いで父に聞いた。
「うむ……」
 父はわたしと目を合わせず、何度も咳払いをした。何か
バツの悪いことでもあるのだろうか。
「あなた……」
「あぁ……」
 両親の物々しい雰囲気。わたしは嫌なことを言われるの
だろうとビクビクした。埋め込んだパレードの歯が、ズキ
リと痛んだ。
「皆岸昭子君から聞いたんだが……」
「昭子?」
「あぁ、彼女から電話があってだな……その、なんだ……
最近、おまえの言動がな……わたしたちも感じていたこと
なんだが……少し……常軌を逸しているというか……夢見
がちと言うか……おかしく見えてしまってなぁ」
「…………」
 父がしどろもどろな感じで言葉を吐き出した。母親は泣
きそうな顔で、ジっとわたしを見ている。こんなにも動揺
している両親を見るのは初めてで、どうしてかわたしは悲
しくなり、口答えせずに黙って聞いた。一方で心配だった
のは、昭子がわたしの犬歯のことを言ったのかどうかとい
うことだった。
「佐恵ちゃん、昭子さんはあなたのことを心配してくれた
のよ」
 母が懐かしい呼び方でわたしを諭した。
「いいか、佐恵子。パレードはもういないんだよ」
「……うん」
 コクリと頷くと、金槌で殴られたみたいな痛みが口の中
全体に広がり、わたしは目を開けていられなくなった。
(痛い……っ!)
 歯茎の中から溢れてくる激痛に、わたしは唇を噛んで耐
えた。ここで痛みを訴えれば、きっとパレードの歯を埋め
込んだことがバレてしまう。
「━━信じたくないのはわかる。私達も信じたくなんてな
い。だがあの子が死んでしまったのはまぎれもない現実な
んだ。現実から逃げても、あの子は生き返ったりしない。
わかるね?」
「佐恵子、あなた自身は気づいてないかもしれないけど、
最近、顔色がすごく悪いわ。頬もやつれてきてるし……ま
るで病人みたいなのよ」
「…………」
 わたしは神経をホッチキスで乱暴にとめていくような痛
みに耐え切れず、歯を食いしばってウウウと唸った。痛み
に我を忘れそうだが、それでも父の声ははっきりと聞こえ
てきた。
「私達には死んだあの子よりも、今生きている佐恵子の方
が大切なんだ。いいか、あの子のことは金輪際忘れなさい」
 ビクっとわたしは揺れた。
 恐ろしいことを言われた。
「つらいだろうが、これからを生きていくためだ。いつま
でも悲しみに耽っていては佐恵子のためにならない。わた
したちも佐恵子と一緒に、あの子を忘れるようにするから、
おまえもパレードのことは忘れるようにしなさい」
 忘れる。
 パレードを忘れる。
 父があの子を忘れる。
 父に忘れられる。
 そう考えただけで痛みが一層強くなり、悪寒が全身を襲
った。ガクガクと震えが止まらなくなり、口の中に鉄臭さ
が広がった。パレードの歯を埋め込んだ歯茎から、血が涙
のように染み出している。
 鳴り続ける痛みの中心はパレードの歯だった。
 わたしは激痛の音叉で頭が一杯になり、父親の声を聞き
ながら意識を失った。

 わたしは夢を見ていた。
 大きな獣に追いかけられていた。その獣はわたしの影だ。
白い歯を剥き出し切なそうに鳴きながら追いかけてくる。
声とは裏腹に、わたしを食べようとしていることがヒシヒ
シと伝わってきた。
 食べられたくないので、わたしは走って逃げる。住宅街
の煉瓦道を、土手の砂利道を、公園の運動場を。
 しかし、逃げても逃げても引き離すことはできなかった。
 影だから。
「きゃっ」
 家の庭を通り抜けようとしたとき、わたしは地面からせ
り出てきた父の顔に躓いて転んでしまった。つま先で思い
っきり蹴ってしまったので、父の顔が無残に変形している。
顔だけが露出し、首から下は地面に埋まったまま。
「と、父さん……?」
「忘れなさい」
 カクカクと顎を動かして父が言った。
「忘れないもん」
「忘れなさい」
 焦点の合わない目で「忘れなさい」と連呼する。連呼す
る父の口から黒い影が這い出てきて、わたしに覆いかぶさ
った。
「オマエサエイナケレバ」
 影の中でそう聞こえた瞬間、激痛だけが鮮明に浮かび上
がった。
 ビチャビチャと音がした。

「…………ぅあッ!」
 現実に目が覚めたとき、わたしはベッドから飛び起きて
いた。嗚咽を漏らしながら、自我の確認作業に脳をフル回
転させる。
「……はあっ……あっ……」
 薄暗い自室。開け放たれた窓。差し込む月明かりで部屋
の中は案外明るい。壁に掛けられた時計を見ると、深夜だ
った。
 ボンヤリと考える。夜風が冷たい。こんな時間なのに誰
かの水を撒く音、さらに犬の遠吠えが聞こえる。
(怖かった……)
 異常にリアルな夢だった。目を閉じれば、細部まで鮮明
にも出だすことができそうだった。影の音も脳髄かにこび
りついている。
(やだなぁ……)
 長い時間ボンヤリしていたつもりだったが、実際には五
秒も経っていなかった。
 意識がハッキリとしてくると、喉がカラカラなのに気付
いた。ハッキリと聞こえる水撒きの音がそれに拍車をかけ
た。
(……あれ?)
 口の中には唾ではない液体が溢れ、歯と歯の間には何か
繊維のようなものが詰まっていた。さらに、口の周りはベ
トベトに濡れている。
「な……なに……?」
 わたしは奇妙に思い、右手で口周りを拭おうとした瞬間、
全身の神経に夢の中と同じ激痛が走った。
「……っあアぁあアァーーーーーーッッ!」
 わたしは叫んだ。
 右手の手首の肉がえぐられた様になくなっていたのだ。
液体は壊れた消火栓のように噴出している。さっきから聞
こえていた水撒きの音は、わたしの手首から噴き出してい
た血の音だったのだ。
「痛あっあ……ああっ……」
 わたしはどうすればいいのかわからなかった。どうにか
しようと思っても身体が動かなかった。何が起こっている
のかさっぱりわからなかった。
(なに? なんで? どうして手首……やぁッ痛いっ痛い
よぉッ!)
 手首から指先にかけてはブラブラと無抵抗に重力に揺ら
れ、えぐられた肉の間から素麺のような白い神経と黒い線
の入った橙色の動脈、砕かれた骨が無数に見えた。
(ひぁっ……ッ!)
 月光を浴び、キラキラと生々しく光る手首にわたしの視
線は釘付けになる。心臓が爆発しそうなくらい跳ねている。
 痛みが更なる痛みを呼び、意識が朦朧としてくる。
(どうしよう……どうしよう……父さん……母さん……)
 わたしはもう泣き叫ぶこともできず、涙を流すことさえ
忘れていた。
 微かに残る理性が、両親を大声で呼ぼうとした。かき集
めるように、息を大きく吸うだけで、右腕全体に包丁を突
き立てられる。
 正気でいられる限界ギリギリだった。
 ひゅっと息が漏れ、わたしは有らん限りに叫んだはずだ
った。階下にいる父と母へ、助けを求めたはずだった。
「ワスレナイデ」
 予期せぬ台詞がわたしの口から飛び出した。底冷えする
おぞましい声であった。とても自分の声とは思えない、重
いしゃがれ声。
(今のって……)
 夢の影の声。
 ということは今はまだ夢の中にいるのだろうか?
(きっとそう……そうよ……こんなの夢だわ……夢……夢
なのに……なんでこんなに痛いのよぉ……)
 夢はもっとボンヤリとしていてほしい。痛みなんてあっ
ちゃいけないと思う。
「ワスレナイデ」
 わたしは何度もワスレナイデと言った。
 パレードの歯がズキズキと痛みだした。痛みの奔流は、
すぐに歯から頭部全体を侵食した。両親からパレードを忘
れるように言われたときと、まったく同じ痛みだった。
 重い鉄パイプを頭に叩きつけられる中、パレードの唸り
声が聞こえてきた。
(……パレード? パレー……ドなの?)
 わたしは必死に呼びかけた。
 呼吸もままならず、朦朧とする意識を奮い立たせ呼びか
けた。
(パレード……わかったから……ね、忘れないっ! 絶対
忘れないからっ! わたしだって忘れたくないヨっ!)
 目だけが爛々と輝くパレードが、窓辺からヒタヒタと近
づいてくるのを感じた。金色の毛並みは一糸もなく、月明
かりの中、影絵のように浮かんでいる。
 恐怖心と懐かしさが一緒くたになって襲ってきた。
 あれはパレードに違いない。違いないけれど、わたしの
知っているパレードじゃない気がする。
(お願いお願いお願いッパレードッパレードぉっ! 痛い
ヨ、離してヨぉっ!)
 ボタボタと涙を流して懇願しても、歯の痛みは増すばか
りで、その絶痛は右手のそれを覆い隠すほどだった。
(痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いッ!)
 冗談じゃなく頭が割れそうだった。
 パレードがベッドの上に乗ってきた。着地した際に、ぼ
とりと彼の腸がわたしの下腹部の上に崩れ落ちる。別種の
生暖かい水気がシーツに広がり、沁み込んでいく。
 パレードはわたしの右手の匂いを嗅ぐと色々飛び出た傷
口を一舐めして、思い切り噛りついた。
(うぁ……パレード……乱暴しないで……よ……)
 パレードは掌と甲に牙を立て、左の前足で手首から下を
押さえつけて、グイグイとすごい力でわたしの手と腕を捻
じ切ってしまった。
 右手の感覚はとうになくなっていた。
 パレードと眼が合う。
 咥えた右手を、首を回して床に放り投げる。鮮血を弾い
て転がっていく右手を見ていたら、わたしは一層悲しくな
った。
「ワスレナイデワスレナイデワスレナイデワスレナイデ」
 パレードが小さく鼻で啼くと、わたしは左腕に手首に噛
り付き、あらん限りの力で骨ごと食い千切った。動脈は硬
かったが、犬歯を縦に引き裂くと簡単に裂けた。皮膚の一
部が上顎に引っ付き、奥歯に挟まった神経が数本、口端か
らだらしなく垂れた。
 喉が焼けそうだった。わたしは絶叫しているのだろうか。
声が出ているのかどうかわからない。血が目に入り、視界
が真っ赤に染まった。
 身体全体を濡らすように血が噴出する。パレードにもか
かっているが、彼は気にしていないようだ。むしろ気持ち
良さそうにしている。
(ぱれー……ど……どうして……ねぇ……)
 パレードが大きく遠吠えする。
 気持ちの良い風が吹き抜けた。わたしは身体を曲げて、
血に塗れた顔をお腹に近づける。
(どうしたの……何が……したい……の? ねぇ……パレ
ー……ド……)
 わたしは既に、自らの身体を御そうという気が失せてい
た。血を失いすぎたせいではない。今、わたしはわたしで
はなくなっている。わたしを動かしているのはわたしでは
ない。
 あらゆる感覚が凍る中で、パレードの歯だけがポッカリ
と意識に浮かんでいた。
 目の前にいるパレードが鋭い歯を剥きだして、今にもわ
たしのお腹に齧りつこうとしている。鼻息が荒く、血走っ
たその目は獣そのものだった。
 限界まで身体が曲がっても、わたしはさらに曲げようと
した。首の関節が歪な悲鳴を上げている。
(ぱれーど……ぱれーど……だめだよ……それ以上……)
 ボキボキと背骨から嫌な音が聞こえた。無理やり力ずく
で押さえつけられているような感じだった。
 パレードがわたしに跳びかかってきた瞬間、バキンと背
骨と折れた。同時に折れた背骨の先端が肉と皮膚を突き破
る音が聞こえた。
 まるで地獄の底へ落下するように、わたしは自らの下腹
部に牙を立てた。
 肉に歯が食い込む感触を確かめると、わたしは思い切り
首を振り腹を食い破る。
 それを何度も何度も内臓を引きずり出すまで繰り返すと、
まず歯が何本か折れ、最後に首が折れた。
(……これが……したいこと……だったの……?)
 パレードを撫でたかったけれど、腕は両方とも動かない
し、撫でる手は千切れているし、わたしは血だまりしか見
えていなかったから、叶わなかった。
 溜息をついたら、両親がドアを開けてわたしの部屋に入
ってきたのがわかった。
 臓物臭の中、娘の変わり果てた姿に、母が一言も発せず
に卒倒した。
 父も呆然としている。
 わたしは自分の腸に顔を埋めながらなんとか首を動かし、
ジッと彼ら見ながら呟いた。
「ボクヲワスレナイデ、オトウサン」



了




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