『野良猫矜持@Pride of Wild』 2007/3/25



         正午

 母親と、昨夜猫の鳴き声が凄かったという話をしていた。
 二年前まで我が家でも猫を飼っていたし、家の周りには
野良猫が徘徊しているので、猫喧嘩声には慣れているのだ
が、今回の鳴き声は今までのとは色が違っていた。
 一方はよくある低く唸る威嚇の鳴き声だったが、もう一
方はひどく甲高い声で、威嚇というよりも、生命の危機に
抗って泣き叫んでいるような、そんな印象だった。
 母親とも「いつものとちょっと違ったね」と話した。
 死んでしまった飼い猫は、ずいぶん大人しかったんだね
ぇと母親が言った。
 飼い猫は車に轢かれて、病院で死んだ。
 苦しんだかどうかはわからない。
 その場におらず、その場に行かず、目を背けた。
 まだ楽しく想い出として話せるほど、寛大になれなかっ
た。
 割り切れない大人、つまりは半人前。
 至極面倒。憂鬱。
 今でも運転していた女を殺してやりたい。同じ車で腹を
轢いて、アスファルトに内臓が滲みこむまで何度も轢いて
やりたいと思う。
 だが、そんな資格がないことはわかっている。
 おかげで死んだ飼い猫はいつでも傍にいる。

         十四時

 二階の元自室で昼寝をしていると、昨夜と同じ甲高い鳴
き声が聞こえて起きた。
 ベランダに出て鳴き声の出所を特定する。
 どうやら隣家との隙間の空間からのようだった。
 柵から下を除くと、白い生後二週間くらいの子猫が、ふ
らつきながら歩いていた。一秒に一歩ずつ、今にも倒れそ
うだった。
 子猫の後ろから、まだ若い成猫が子猫に足を忍ばせて近
づいていた。
 母親だろうかと思ったが、子猫の様子からそう断定でき
そうにはなかった。
 子猫はいつのまにか、硬い石の上で、前足で顔を守る様
に蹲ってしまった。まるで力尽きてしまったみたいだった。
 思わず声を出してしまうと、後ろから近づいていた成猫
は一目散に反対方向へ逃げていってしまった。
 蹲った子猫は微動だにしなかった。
 どうしたものかと眺めていると、蹲った子猫のほかにも
う一匹子猫が横たわっているのが見えた。
 黒と灰色が綺麗にブレンドされた毛色の子猫だった。
 こっちはとうに絶命しているのが一目でわかった。
 母親に言って、とりあえず死んでしまっている子猫をな
んとかすることにした。
 子猫のいる隙間には、隣家の敷地から侵入するしかない。
我が家は物置と植木が邪魔で入っていくことができなかっ
た。
 庭にいた隣家の主人に母親が事情を説明する。
 昔からこの主人とはソリが合わない。
 話を聞いた主人は、「若い母猫がいる」「真っ黒な子猫
もいる」と言う。
 生返事をしながら隙間に侵入した。
 蹲っている白い子猫はまったく動かなかったが、軍手を
嵌めた手で頭を少し撫でてみると、大きな鳴き声を上げた。
 さらに奥の死んでしまっているであろう子猫を抱え上げ
る。
 両手に収まるほどの大きさで、首が力なく項垂れた。外
傷らしい外傷はなかったが、少し痩せていた。餓死するほ
ど薄くなっていなかったので、急激な気温の変化に耐えら
れなかったのかもしれない。
 毛並みはふわふわで目を瞑り、いつものように、本当に
眠っているように、この子猫は死んでいる。
 両手でくるんで、やはり静かになった白い子猫を踏まな
いように隙間から出ると、隣の主人がスーパーマーケット
の袋の口を広げていた。
 そこに入れろということらしかった。
 できれば目の前の堤防に埋めてあげたかったが、結局そ
の袋に入れてしまった。
 主人はその子猫を入れた袋を、庭のチリトリの中に入れ、
うちで処分しておきますと言った。
 母親が礼を言っていたが、今度の燃えるゴミの収集日に
出すだけなのだろうから、礼を言うほどのことでもないだ
ろうと思った。もちろん口には出さなかった。
「あの子猫も死ぬんじゃない?」
 やけに嬉しそうに主人が言った。
 同感だが、別に嬉しくなかった。
「うちで飼うわけにもいかないし。前に飼ってたのは、知
人の家で生まれた綺麗なのだったしねぇ」
 母親の一言は悲しかったが、今は子猫の面倒を見れる余
裕がないのも事実だった。
 皆見殺しにするつもりだった。
 いや、もしかしたら母猫が来るかもしれない。
 可能性はかなり低いが、そう願った。
 子猫は二匹とも静かだった。
 小さく明確な生と死の境界があった。

          十八時

 結局、母猫は現れず、今度は無断で隣家の敷地から隙間
に侵入し、白い子猫を抱き上げる。
 鳴き声を上げたが、さっきよりも弱弱しかった。
 家に連れて行くと母親が非難の声を上げたが、飼うつも
りはなく、看取るだけだと言うと、不思議なものを見るよ
うな目線を送ってきた。
 おそらくこの子猫は助からない。たった四時間で自ら動
くこともなくなってしまった。今は静かに手の上で寝てい
る。水滴を口に含ませても、飲み込んでいるかわからなか
った。
 定期的に喘ぐように体を反らせる。
 右目の潤んだ黒い瞳だけが瞬きすることなく、見開かれ
ていた。
 病院に連れて行けば助かるかもしれないが、助けるつも
りはなかった。
 助けてどうだというのか。
 助からないほうが都合がいいのだ。あるいは勝手に助か
って、勝手に生きていってもらうのが一番良い。
 憐憫の情はあっても、子猫の死を待ちわびている。

          十九時

 母親が、赤ん坊用の毛布を子猫のためにもってきた。
 電気もつけず、暗い自室で虫の息の子猫を眺める息子は
さぞ不気味だったろう。
 去り際に、もうすぐ夕食だと言った。
 子猫を柔らかい毛布に移し、一階に降りた。
 母親は今まで話さなかった、死んだ飼い猫の死に際の様
子を無表情に語った。
 一言一句聞き逃さないようにした。

          二十時

 重い夕食を食べて自室に戻ると、子猫は寸分違わぬ姿勢
で、毛布に横たわっていた。
 撫でてみても、反応はなかった。
 体を反らすこともない。
 静かに息をしているだけだった。

          二十三時

 一度だけ大きな呼吸をした十分後に、子猫は息をするの
をやめた。
 土に埋めてやろうと外に出る。
 隣から、もう一匹の子猫の入った袋を奪い、土手に穴を
掘って二匹を埋めた。
 

          零時
 子猫は生きた。
 野良猫の生き様と死に様をちゃんと理解し受け入れてい
た。
 魂は御山に還り、母猫に会うだろう。
 人間が勝手に同情して悲しむのは筋違いだ。

          翌朝

 甲高い鳴き声が聞こえたような気がして起きた。
 子猫を埋めた場所を見に行ってみると、ぽっかりと穴が
あいており、二匹の子猫はいなくなっていた。
 それもまた筋違いということだったのだろう。
 




 了




目次
    inserted by FC2 system